釣行日誌 NZ編  「一期一会の旅:A Sentimental Journey」

長い長い助走

 2017年11月21日。明日から釣友の鰐部さんと一緒に7年ぶりのニュージーランド再訪を控え、早めに出勤して残っていた仕事を片付け、納品書・請求書作成の仕事のあらまし・ソフトウェアの使い方などを、旅行中のピンチヒッターとして肩代わりしてくれる加藤さんに説明しているところに僕の携帯電話が鳴った。かけてきたのは次兄で、

「明日から旅行の所悪いがなぁ、親父が危篤になったぞ...」

 電話を受けていた僕の顔色が急に変わったのを見て、上司の石井部長が声をかけてくれた。

「伊藤君、どうかしたのかい?」

「ええ、急に父が危篤になりまして、今日はここで仕事を上がらせていただいて、今からすぐ病院に向かいたいのですが」

 加藤さんへのレクチャーは部長が代わってくれ、僕は慌ててパーカーを来てバイクでいったんグループホームに戻り、車を借りて、約60kmほど離れた実家の町の病院へと急いだ。2時間足らずの道のりである。時刻は10時過ぎだった。

 父は近年めっきり足腰が衰えたのと、若干というか、かなり認知症が進んでおり、ここ4年ほど、同じ市内に住む叔母が引き取ってくれて面倒を見てくれていたのである。一月ほど前から少し病状が悪化し、故郷の町の小さな病院に入院していたのだが、ここ一週間ほどはかなり回復し退院のめども立ったので、今度は次兄の家で面倒を見るように段取りを始めた矢先のことだった。次兄も仕事で名古屋の近くに出かけていた今朝9時頃、病院から緊急の一報が入ったらしい。

 ついついアクセルの上の右足に力が入り、スピードを出してしまうが、ここで事故でも起こしたら二重にまずいことになるなと自重し、いつもより慎重に運転した。道すがら、ここは昔のあの時、父と母と高校受験で朝早く通った場所だとか、ここを通ると父がいつも口癖のように祖父の弟が昔この辺に住んでいてなぁ...などと話していたことが、次々と思い出されてきた。しかし、昨日までは良い状態だったのに、何故いきなり危篤状態になったのか、次兄の電話ではわからなかった。今はただ、一刻も早く病院へ着いて、父の顔を見たいと願った。

 市街地を抜け、山間部に入り、ぐねぐねとカーブの連続する道を遅れぬよう事故らぬよう気をもみながら車を飛ばす。病院の駐車場に車を停めるとちょうど携帯が鳴った。出てみると叔母からで、父は11時過ぎに事切れて、あとの支度を看護婦さんや長兄がしてくれているので、叔母と義姉は病院のすぐ近くに住む義理の叔母さんの家でお昼を頂いているとのことだった。

「間に合わなかったか.....」

 死に目には会えなかったが、一週間前に見舞って顔色の良いところを見られたので、残念ではあったが不思議と心残りはなかった。再び車に乗り義理の叔母さんの家に向かう。家に入ってみると、3人炬燵で取り急ぎの昼食を食べていた。僕は会社で食べる予定のお弁当があったので、おかずだけ頂いてささっとお昼を済ませた。

 叔母の話では、叔母が病院に着いた時にはすでに遅く、長時間にわたった医師や看護師さんによる心肺蘇生処置も実らなかったという。次に義姉が病院に着いたそうだ。遺体は午後遅くには病院から実家に運ばれるので、それまでに僕は実家に行って玄関や奥の間を片付けたりしておけというのが次兄の指示だった。義理の叔母さんの家を出る前に、名古屋の旅行代理店に務めている鰐部さんに電話で一部始終を伝え、明日からの旅行は急遽キャンセルさせていただくことをお願いした。鰐部さんは最初、「ええっ!」と絶句していたが、その後、テキパキと航空会社やフィッシングガイドのディーン君に連絡を付けてくれ、時間の無い中、なんとかキャンセル代が最小になるようにてんてこ舞いで手配してくれた。

 その日の夕方近くになり、父の遺体が長兄の車で実家に運ばれてきた。兄弟3人と従兄弟が手伝ってくれて奥の間に安置し、初めて父の死に顔をまじまじと見た。やや青白かったが痩せ衰えてはおらず、いつもの父の風貌がそこにあった。

 以降、11月21日は実家で泊まり、明くる22日はまた豊橋に帰って通夜の支度をして再び実家にとって返し、町の葬儀場で通夜を行った。その夜は豊橋に戻り、23日にはニュージーランドのハーツ・レンタカーと Vodafone shop へキャンセルの電話をかけてから葬儀のために再び実家の町に戻った。そんなこんなのドタバタと連日の睡眠不足、通夜・葬儀の疲れから僕の持病である躁鬱病の躁状態がひどくなってしまい、初期症状の買い物病からいくつかの奇行を経て、とうとう11月29日から入院する羽目になった。最初の3週間ほどは極めて状態が悪かったが次第に回復し、病院のテレビで紅白歌合戦を見て年が明ける頃にはほとんど平常の心身状態に戻った。結局退院は2月中旬となり、服薬量が増えたせいで体重も3kgあまりリバウンドしたものの、元気に社会復帰することができた。

 2018年の3月上旬には、旅行代理店に勤める鰐部さんに、今年の11月下旬に4日間ほどディーン君のフィッシングガイド日程に空きがあるかを打診し、ほぼ2017年の旅程に沿って釣行プランを立て直した。続いて留学生時代にお世話になったハミルトン在住の大林さん、田島さん両家に連絡を取り、再びそれぞれ1週間ほどの滞在(居候)のお願いメールを送った。ディーン君のガイドの日程がOKになったので、旅程にもとづいて北島での移動に使うレンタカーの予約を済ませ、両家にお世話になることが出来ない場合に備え、一応ホテル検索サイトでハミルトン市内の安ホテルも押さえた。4月には予約確認書が届き、前金の振り込みも済ませ、ニュージーランド再訪への準備が着々と進行していった。8月に入った頃、ハミルトンの両家から滞在はほぼOKとの連絡を頂き、ホテルの予約はキャンセルした。

 続いて9月頃から釣り道具や持ち物の準備に取りかかった。昨年に1度、出発できる段階までパッキングは済んでいたのだが、今年の釣りシーズンのために荷をほどいてしまっていたり、防水デジカメのパッキン周りの部品を交換したり、同様に電池の切れた腕時計の電池交換・防水パッキン交換などを行ったりで、手間も出費もかさんでしまった。確実に必要となるウェストコースト用のフライパターン、ロイヤルウルフ、グレイゴーストなど各サイズをニュージーランドのフライショップから通販で取り寄せた。フライラインも去年新調した Airflo のWF6Fの他に、2010年の釣行時に買った Cortland も一応スペアスプールに巻き直して持って行くこととした。ロッドは愛竿キルウェル6番をアルミケースに入れてバックパックの横にベルトで装着した。

 2018年は夏から秋にかけてイワナ相手にミノーで良い思いをしていたので、今回はハミルトン近郊のスプリングクリークで30~40cmクラスのレインボーに遊んでもらおうと、旧いUFMのパックロッドと、新調したダイワのスピニングリール レガリス LT2500S-XH もプラスチックケースに入れてパックに詰めた。

 表計算ソフトで作った持ち物リストを見ながら、衣料品、ウェーダーとウェーディングシューズ、レインウェア、フィッシングベスト、ルアーケース2個、事務用品、土産物などなど、一切合切を二つに分けて詰め込んで重さを量ってみると、バックパックは約16kg、デイパックは約6kgとなり、一応ニュージーランド航空の規定には収まった。しかし、バックパックの縦・横・幅の合計サイズが規定を超えていたので、サイドポケットは左右とも取り外し、なんとかあと2cmの余裕で規定内に収めることができた。

 10月になってからはホキティカのブリントさん夫妻や、オークランドのリタイヤメントビレッジに住んでいる、語学学校留学生時代の元ホストマザーのジョー・ハーマン夫人とスカイプの音声通話で連絡を取り、11月下旬には訪れて再会したいことを伝え、釣り場の近況や体調の具合などを伺った。ジョーさんはこの1年ほどですっかり声が弱々しくなり、心配していたのだが、もうじき行くからねと言うと、

「ゴウ、気をつけておいで。」

 と気遣ってくれた。

 オークランドの語学学校で知り合って、僕が出るのと入れ替わりでジョーさんの家にホームステイしていた、横浜市在住のノンフィクション作家・編集者の植田紗加栄さんとも連絡を取り、ジョーさんにまた会って来ますからねと伝えた。植田さんはお気の毒なことに、ここ1年半ほどガンとの闘病生活を送っており、次第に病状が悪化していた。僕は、いつもお世話になっている鍼灸師の曽我先生を紹介して、1週間に1度は植田さんから先生と僕に電話連絡をしていただき、曽我先生から治療のアドバイスを受けていたのだが、抗がん剤や温熱療法などを続けてきたものの、11月初めには、主治医から、よく保ってあと1ヶ月ほどでしょうと言われたとのことだった。そのため、僕は帰途の旅程を変更し、帰国後成田から中部国際空港へ飛ぶのをやめて、横浜に1泊して植田さんに会うことにした。しかし、そう伝えると植田さんは、まだまだ私は元気だし、重い荷物をいっぱい抱えて横浜に寄るのは大変だから、また年末か年明けにでもあらためてお会いしましょうと言ってくれた。それではそうしましょう、ということで、成田からJRで豊橋まで帰る旅程に組み直したのであったが。

 懐かしい人たちに再会できる期待と、ジョーさんや植田さんの体調を気にかけながら、長い旅が始まった。


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