ラボから来た男

「ぼくぐらいになると、その日の気温とか風向きとかで桟橋のどのあたりに座ったらいいか、だいたいわかるんだよね」

 などと川本君に話しかけながら石段を下りると、夜明け前の桟橋には一面に霜が降りている。

 えらそうなことを言っておきながら一目散に桟橋の突端目指して歩いていくと、そこにはすでに、一人の男が無数の物品に囲まれて座っていた。

「お、おはようございます」

 いささか気圧されてあいさつをしたものの、男は私を無視して一心不乱に動き回っている。見ると、特大のトランクが二つ桟橋の突端に積まれ、頑丈なアルミ製椅子の周りには、10数本の水温計、バッテリーが2ヶ、工事現場にあるようなコードリール、HPの関数電卓、ノートパソコン、小型電磁流速計、携帯型GPS受信機、スウェーデン製の全方位性超音波測深機、各種の水質測定機器などが所狭しと並べられ、椅子のフレームに結わえられたロッドケースの先では風速計のプロペラがかすかに回転している。不思議と魚群探知機は無いようである。

 男が持ち込んだ機材も異常だが、それらの内容がだいたいわかってしまう自分もフツーではないなと苦笑させられる。

「伊藤さん、この人、どういう人なの?」

 川本君が小声で不安げに問いかけてくる。わたしもにわかには返答のしようがない。

 しばらく二人で見ていたが、川本君はこの一大スペクタクルよりも、沖合いのニジマスのライズに目を奪われ、さっさと自分のタックルをセッティングし、いつもの折り目正しいダブルホールを始めた。私は、ロッドをセットする気にもならず、男の所作を眺めることにした。

 男は、ウールのウォッチキャップ、真新しいゴアテックスジャケット、ダウンのキルティングパンツ、それに年季の入ったソレルのブーツというスタイルである。年の頃は50代後半から60代前半か。鬢の当たりはすでに真っ白で、漂う雰囲気はどうも日本人ばなれしたところがある。

 一言で表現するならば、あの中州産業大学のM教授が眼鏡をはずした時のようだと言うしかない。

 ふと、男のトランクの取っ手を見ると、カナディアン航空の真新しい荷物ラベルが風に揺れている。どうやらつい最近カナダあたりへ行っていたようだ。

 男は、歳格好に似合わぬ流れるような動作で、一メートルごとにタコ糸に結わえた水温計を湖水に垂らして深度毎の水温を測定し始めた。メモをとる時間も惜しいのか、胸ポケットのマイクロコーダーにまくし立てるようにデータを録音している。独り言も多い。

 男は引き続き各種の測定機器を駆使しながら、風向・風速、気温、流速、流向、pH、化学的酸素要求量、浮遊物質濃度、色度、濁度などをてきぱきと測定してゆく。雨でも降り出したらすかさず酸性雨のチェックが始まるだろう。

『うーん、この測定の手際良さを見る限り、タダモノではないな...』

 と、私の心に、この男と、彼の釣りに対する畏怖が広がってゆく。

 あたりはしだいに明るくなり、遠くの山並みの稜線が赤く滲み始めた。

「あのぅ.....」

 と、思い切って声をかけたが、男の冷ややかな目で一瞥されると、もうそれ以上「彼の釣り」に干渉することは、とてつもない罪悪のように思われた。

 ようやく一連の測定が終わったようで、男はロッドケースから一本のフライロッドを取り出した。よく見ると、なんとその竿は、20数年も前に私の父親が近所のダムから拾ってきたフェンウィックのグラスロッドと同じモデルではないか。

 その古びた竿と、男のジャケットの下からのぞいた黄ばんだ白衣を見た瞬間、私の背中に何かひんやりとしたものが走った。この人物ならばいったいどんなフライリールを使うものやらと興味津々で注目していると、男は、傍らのコードリールからフライラインを引き出した。

『なにを考えてるんだこの男は?もしや....』

 いささか別の不安が頭をよぎったが、気を取り直して黙って見つめる。男が引き出したラインはどうやら軽めのシンキングらしいが、よくよく見ると、濃緑色のラインの表面に、別の極細のコードが入念に縫いつけられているようである。

『なんなんだ、あのコードは?』

  男はそのコードの一端を、何かの電子機器に接続し、そこからケーブルを延ばしてノートパソコン背面の端子に接続した。いまだ完全には明け切らない湖畔の朝靄のなかで、PCの液晶画面がうすぼんやりと光りだす。どうやら何かの電気信号を伝えるコードがラインに縫いつけられているらしい。

 案の定、フライラインの先端には、小指の頭ほどの微少な膨らみが付いている。男がその膨らみを自分の顔に向けると、画面に幽霊のような白色光がゆらめいた。膨らみの正体はCCDカメラのようである。

 さらに男はモトローラの衛星携帯電話まで使って、PCからデータ送信を始めた。と、いうことは、海外にこの男の研究所があるのか?

 いよいよ男はモノフィラを10センチほどラインに結び、ポケットからフライボックスを取り出し、中から一つのフライを選んで結んだ。白一色のマラブーである。

 この頃には湖もすっかり明るくなり、釣り客が続々と湖に到着し始めた。騒々しい家族連れやら眠い目をこする恋人を連れだした若者達がみな、桟橋の先端のただならぬ雰囲気に引き寄せられて集まって来る。

 ここの常連たちから、「名人」と呼ばれているおっさんまでも、あっけにとられて男を見ている。かれこれ二十人近くが集まったため、桟橋に固定されている浮力体のドラム缶があらかた沈んでしまっている。管理人まで出てきたようだ。

 コードリールから繰り出したラインを、絡まないように丁寧に自分の足下に丸め、いよいよ男のキャスティングが始まった。

『こ、この男は今日初めてロッドを振るのか!?』

 これまでの道具仕立てからは信じられないほど素朴な男のキャスティングではあったが、シンキングライン+信号コードのこわばりを、ラインの総重量がカバーし、なんとか沖合いまでマラブーを送り届けた。とにかくモノフィラリーダーが15センチなのだからターンオーバーしまくりである。

 男はラインの着水と同時にパソコンを膝に載せ、キーを弾いた。すると、ピッピッという電子音が聞こえだし、しだいに早くなり、ついに連続してピーッと甲高く鳴り始めた。男はもう一度キーを弾き、ゆっくりとリトリーブを始めながらつぶやいた。

「カウント35で連続音に変化。センサー動作正常、プログラミング通り」

 なんと、ラインの先端には、カメラだけでなく圧力センサーまで仕組まれているらしい。こういう人物は、マッドサイエンティストと言うべきか、それとも熱心な釣り人と言うべきか?

 相変わらずゆっくりとしたリトリーブを男は続けている。膝の上のPCの画面にはヒラヒラと白い影が上下に揺らめいている。どうやらマラブーが映っているらしい。男は、画面を見ながら微妙にリトリーブを変化させている。ときおりキーを弾いては、フライの深度を確認している。

「オッオゥー?」

 男の表情がにわかに険しくなり、食いつくように顔を画面に近づけた。私はいてもたってもいられなくなり、そーっと男の肩口から画面をのぞき込む。

 と、黒一色の画面に揺らめく白いマラブーの向こうに、薄ぼんやりとした影が不意に近づき、あっと思った瞬間に紅色の頬が横切る。

「ヒィィィーット!!!」

 男は甲高い叫び声を上げ、大きくラインをしゃくり、思わず椅子から立ち上がる。膝からパソコンがガタンと落ちる。黒山の人だかりが「おおっ」と声を上げてずずっと後ずさり、桟橋がきしんで音を立てる。男が叫び続ける。

「魚種レインボー! 推定体長約65cm、推定体重約2.5kg! 最大瞬間突進速度毎秒3.5m! 推定牽引張力1700g、加速度推定不能! そーれそれそれそれ跳ぶぞーっ! 跳んだーっ! 行っけーっ!」

 古いグラスのフェンウィックが悲しげにきしみ、コード縫いつけで太くなったラインをものともせずにレインボーが華麗な跳躍を魅せる。頬の紅色が朝日に輝く。

「目測体長修正約63cm!、うーんいいぞーっ! いいっ!」

 右へ左へと水を切って奔走するラインを見ながら、九年前にカナダ、ブリティッシュコロンビア州のキャピラノ川のガイドと酒場で飲んだ時に、カウンターの客が、今日おもしろい男と出会ったと言っていたのを突然思い出した。その客の口から出た、「ラボ・マン」とか「ドク」などという言葉が、鮮やかに耳に浮上する。

 三回跳躍をしたレインボーが最後の力でロッドを引き絞り、四度目のジャンプに挑む。

「イーッヤッホーッ! エーックセレント!」

 近場まで寄せた後で何度も竿をのされながら、なんとか男がレインボーに空気を吸わせることに成功した。取り出したバンダナで指をくるみ、思い切りよく鱒の顎をつかんで高々と男が獲物を掲げる。観衆から拍手がわき起こる。場所が広かったら胴上げになったかもしれない。

 体長を計った後で男は、

「目測誤差、1センチ」

とつぶやき、そっと鱒をリリースした。集まっていた観衆も、三々五々、自分の釣りへと戻っていく。

 男は再び一心不乱に釣り道具の片づけを始め、すべての機材をトランク2ヶにしまい込み、ロッドケースを肩に掛け、

「1尾、釣った」

と私に向かってニッと笑い、湖の桟橋から去っていった。

 確かに、あの鱒は、「釣れた」のではなく、彼が「釣った」のである。

後記:このエッセイは、題名は忘れましたが、筒井康隆氏のパチンコを題材にした短編に触発されて書いてしまったことをここに告白します。


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