アメノウオ一代 その1  最初の1尾

--それじゃあねえ、生まれて初めてアメ(三河山間部でのアマゴの地方名)を釣ったところから聞かせて。

 それはなあ、俺が今考えとるんだけども、古戸のお袋の親が死んだのが確か俺が年生ン時だでなあ、三年生の時の、まだ俺が四年生になっとらん時だで、三月八日だと思ったでなあ。

 でそん時に、俺と長兄ィと二人で、弔いの支度から何から家でやっとるもんだい子供はじゃまだってなことで家をぼい出されて(追い出されて)、お寺の前の川へ行って魚釣って来ただ。雑魚を。ほいで怒られてさ、おじいが死んだっちゅうに殺生しろぎゃあがって(しやがって)って言って。それで怒られた記憶があるが、それより前だと思うでなあ。二年生の春だと思うよ。だから歳で言って九つか十だったと思う。

 それで例の通り春になるの待ちかねているわけだが俺は一年生から名古屋へ行ったもんだで、春休みか何かに古戸へ行っとっただよ。ほいでなぁはい雑魚(カワムツ・オイカワなど)は三月になれば結構釣れるだよ。そりゃ。そいで雑魚を釣って奥の方へ行ったわけだ。寒いだいなぁ。

--だいぶ奥だらあ、中っ原と思うと。

 そうだなあ、あそこからだで2キロ、まあ2キロぐらいになる。ほいでまあ、やっぱり春だもんだで、雑魚釣るにしたって淵ばっか釣ってくわけだ。瀬にはおらんだもんだで。

 それだもんでそう水の中に入らんでもいいっちゅうわけで上って行って、あそこんとこが今より深かったなあ、あそこで上へ行かあと思ったところが川渡らにゃあしょんねぇっちゅうわけで渡って行きがつら(行きながら)そのカーブになったあそこんところへやったわけだ。

 そしたらゴツンゴツン、ギュッと合わせたらさあ上がらんで、えらい目にあってとにかく運良く上がったわけだ。今で言やあ尺アマゴだったらあなあ、とにかく大きかった記憶があるで。さあそれを篭に入れたら尻尾が出ちゃって。こんな雑魚釣り篭に入れとるわけだ。

 さあそれからまあ家に行かにゃあしょんねぇ(しょうがない)と思って持ってきたらおばあが(おたきおばあ:肇の祖母)

「これがアメノウオだ」

というわけだ。

「ほーう」

 と言って、さあそれからおばあと焼いて食ってさ。ほかの小僧ンたちにはやらんちゅうわけだ。(笑)

 それからうちのおみなおばあ(肇の母、みな)は、白川っていう医者が古戸にあったんだけども、昔そこの養女ちゅうことになっておったもんだい、まあ俺はおじい、おじいって言っただけども、そこへまた遊びに行ってホラ吹いただ。

「おじい、おらこんなでかいアメ釣ってきただ。」

「うそをこけ」

「うそじゃない、ほんとだ」

「ほーう」

 それから白川のおじいも魚釣りが嫌いじゃないもんで、アメを釣るには雑魚釣り鉤じゃだめだとこういうわけだ。アユ釣り鉤じゃなけにゃ、顎が固いでくすがらん(顎に刺さらない)。

「それじゃあその鉤おくれ」

 って言って鉤をもらって。で餌はそのなんだ、エモ(クロカワムシ)よりは川に張り付いとるあの平べったいあれ(カゲロウの幼虫)がいいっちゅうわけで、ここらへんじゃああれをセミっちゅうだが。

 そうしたところが悲しいかな今のアユ釣り鉤と違って昔のアユ釣り鉤はちもとにこぶが無いだい。今のような鉤ならキュキュキュとやって縛れるだが。

 でしょうねえもんでいちいちこういう糸でシージングするわけだいな、こうやって。それが今の瞬間接着剤もないもんでよっぽどうまくやらんと抜けちゃうだい。いくらか鉤のもとが太くなっておるだけだもんで。

 で、それでもこれでもそうやって縛って釣りに行ったところが、今みたいにオモリがあるわけじゃなし何があるわけじゃなし、とにかくなんとか釣るだが、そのうちに近所のじじいン達に話を聞くと、イタドリの虫がいいとか教えてくれるわけだい。それじゃあその虫はどういうところにおるだって聞くと、イタドリの枯れたヤツのこういうところに穴があいとって虫くそが出とるでそれをとって割るとおるっちゅうわけだ。

 で、そういう調子でじきに上手になってさ、そこらのおっさんたちは仕事が忙しいだもんでそんなものそう毎日は釣りに行けりゃあへんわなぁ、よほどのなまくらで極道でなけりゃあ。俺はそんなものひまでしょうがない、毎日釣っておるだもんでよう、中っ原の小僧がアメを全部釣っちまうなんていわれたもんだったが。(笑)

--当時の道具は?

 道具って? 竿か? 竿はなあ、おじいちゃんにもらってきたフナ釣り竿のなんだわい、古だわい。

--やわいじゃん。

 うーん、やわいっちゅううちに今のヘラ竿じゃないからこわかった(硬調だった)よ。ヘラなんちゅうものはあんなもの戦後のもんだもの。あの時分にはヘラなんちゅうものは琵琶湖の周辺しか釣らなかったんだもん。それがまあ戦争中から戦後にかけて関東の方へ持っていってそれから流行りだしたもんだいなあ。それだもんで名古屋の近所フナって言えばマブナに決まっとるもんで。

 そりゃああのぅ四本継なぐんだけども、だいたい一メートルを四本継ないで四メートルぐらいになるんだけども、でメートルじゃない三尺だもんで三四の十二尺で二間になるだな。ほうすると女竹三本に布袋竹の穂が付いとるからそりゃあこわいよ。へらざおみたいな胴調子じゃないもん。八・二か七・三ぐらいの調子になるんだもん。

 そいつをもらっていっとってそいつを使うんだが。糸は例の人造テグスよ、でオモリを付けるっちゅう知恵はなかったから当時、そのまま放り込むわけだよ。そのかわりなあ、人造テグスもなあマイナス面ばかりじゃなくてプラス面もあったよ。あの水のなじみが悪いだ。だからわりあい沈まんだよ。な、ほうすると、こうやって子どもだもんだいピターンと放し込むと、先っぽはミミズなり何なり付いとるもんでこう沈むんだけども、テグスは浮いてくわけだ、その糸がシュッと入ったときにギュッと合わせるンだなぁ、そういう利点はあった。

 で手網ですくうっちゅう知恵もないし、大人の人もそんなこたぁやっちゃあおらなんだなぁ。まあとにかく魚をずり上げるわけだ。そのへんはうまいもんだわい子どもの頃からやっとるで。で小さなすぐ上がっちゃう魚はこう寄せてきて胸で受けるんだよ、だから胸のへんは汚いわなぁ。

 で草鞋か藁草履を履いて、それへ足袋を履いて、でズボンの裾がびらびらするもんで紐で縛っておる。やあ冷てぇわなぁそりゃあ、そりゃ冷たい、それでも好きだもんでやるだよ。それだもんでとにかくアメを釣って河合(古戸から四キロほど上流の部落)まで行って帰ってくる、そのうちにゃあある程度釣ってしまうと釣れなくなるもんでこんだあ竿担いで河合まで行ってあの沢へ行くわけだ。よく釣れたぞほいでもなぁ。

--鴨山川かん?

 そう、鴨山川。そりゃ昔は釣る人がいねえもんだい釣れるわい。それから余談になってくるだけどそうやっておると隣の幸一兄ぃ幸一兄ぃっていうだけど、もうおじさんなんだけどその人はさき山さん(木こりのこと)で夕方帰ってくると前の川でてんから(和式毛鉤釣り)をやるだい。それで見ておると比較的大きなやつを釣るだいなぁ。(笑)にくたらしいじゃねえか。で見ておると毛鉤で釣っておるだいなぁ、

「おじさん、それどういうわけだ?」

「毛鉤だ、だけどこんなものお前ン達にはまだ早い、ダメだ」

 こういうわけだいなぁ。(笑)

 それでよくよく聞いてみると

「そりゃあ何の羽根だ?」

「キジの羽根だ」

 と言う。幸一兄ぃは冬になると鉄砲もやるだい。で俺が、こんどキジ撃ったら羽根をくれっちゅうわけだい。だけどそんなものできやせんぞなんて言われてさ。だけどとにかくやるだい。それでもこれでもやっとるうちには曲がりなりにも毛鉤を卷いてさ。ところが食いつくでいかんわなぁそれに。(笑)

 当時はおっただ魚が、そりゃあたくさんおっただよ。そこへもってきて釣るヤツが少ないだもんで。まずそんなこたぁ言っちゃあいかんが大人が昼間っから魚釣っとるなんちゅうやつはまずあの古戸じゅうでよう、豆腐屋の留公か、前の床屋の稲垣とかいう人、それにお医者さま、その三人だ。ほいで留公も稲垣もナマクラの両大関だもんで。(笑)

 あの留公サも名物男でなぁ、あの人は良く言えば趣味が広いわけよ。な、だから冬になると、鉄砲は銭が高くて買えんちゅうわけで、ワナかけるだ、留サが。でタヌキを捕ったりマミッタ(アナグマ)捕ったりウサギを捕ったりして皮ァ売ったり、肉をみんなに売るわけよ。で、タヌキを生け捕りにしちゃあ飼っとるわけだ。さあ俺がそれを欲しいだ。俺も飼うっちゅうわけで。そうしたところがおばあちゃんが、タヌキなんちゅうものは臭いで、どもならんで飼わんちゅうわけだ。

 それから俺おじさんとこへいってよう、くれっちゅうわけだ。そうしたらじじい、銭にならんもんでやだってこきゃあがる。どうしてもおくれっちゅう、留サも一杯飲むときにはうちのおばあちゃんたちにたまにゃぁねだって飲むもんだいしょんねぇもんでとうとうタヌキ1尾くれただい。そーれをお前、首に縄付けてよう、犬みたいに引っ張り回すだい。しまいには馴れて飛んで(駆けて)歩りったったぞう。(笑)

 それでタヌキは臭いでよう、中っ原の前にはなあ、県道隔てて向こうに万年はざっていって栗の木で腐らんように年がら年中はざが立っとるだ。そのはざに縛っておけっちゅって犬みたいに鎖付けてタヌキ縛っといた。

--そんなことがあっただねぇ。

 あった。まあそうやってアメノウオ釣っとる。そうやっとるうちに古戸の消防達がアメマス(当時のニジマスの呼称)ていうものを持ってきて放したっちゅうわけだ。それで今の公団のトンネルが出てきとる沢へは行っちゃあいかんちゅうわけだ。

 そうしてうちのおじいちゃんにそのことを言ったら、

「そりゃだめだ」

 っちゅうわけだ。ほいでとなりの幸一兄ィに、うちのおじいちゃんが、そんなもなぁ川を下がって行っちゃうで、今年の夏あたりに子どもなりみんなで釣ってしまわにゃあ行っちゃうぞ、って言ったところがみんなどうも信用せんだなぁ。

 結局三年たって行ってみたら1尾もおりゃあへん。(笑)そういう話もあった。

--おじいちゃんはそんなことよう知っておっただなぁ。

 知っとったよ、ちゃんと。ほいであの時分なあ、川がなあ、中っ原の前の近所でなあ、セリで買うだけどまあまあだいたい五円ぐらいよ。(注:東栄町では夏になると川の一定区間を競売で買い、アユ釣りやアユの引っかけを親戚や友人達のグループで独占的に楽しむ習慣がある)

 中っ原の前のなあ、ちょっと上流へ行くとイナ淵っていう淵があるだがなぁ、イナ淵の尻からとなりの幸一兄ィの前の瀬の尻までだったかなあ。あそこまでが五円ぐらいだった。でおじいちゃんが買ってくれるもんだで、俺や長兄ィやみの兄ィや親類のみんな集まって引っかけ(アユを追い回しては短い竹竿の先につけた鉤で引っかける奥三河山間部の独特の漁法)をするっちゅうわけだだけどさ。そいでアメノウオをそうやって釣っていく。でまあ、それが俺のアメノウオの釣り始めだわなぁ。


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