エッセイ

完璧の魚

 空港のバゲッジクレームから、渉が大きなリュックを担いでよろよろと出てくるのが見えた。兄を見舞った時よりはるかに背が伸びており、8ftのロッドケースにもうじき並びそうである。

「ワタル!」

 大きな声で呼びかけると、兄の小さな頃とそっくりのほっぺたをくしゃっとさせて、半ば泣き出しそうな笑顔で返事をする。

「ポートランドのおじいちゃん!」

「よく来た、よく来た。一人で偉かったなぁ」

「おじいちゃんはどうだ?おばあちゃんは元気か?お父さんは?」

「おじいちゃんはあんまりよくない。おばあちゃんは少し足が弱ったって言ってる。お父さんは相変わらずバスばっかだよ」

 私の顔を見ればバス釣りに釣れて行けと言っていた小学生の輝の顔が目に浮かぶ。あいつはなんだかんだ言って結局私のカーディナルを手に入れてしまったなぁ。

 今の渉より小さかった甥の輝がもう四十一歳なら、私が歳をとっても不思議ではない。

「キャストはできるようになったか?」

「うん、おじいちゃんの送ってくれたビデオでなんとか勉強したよ。旅行の前には大垣のおじいちゃんが教えてくれたし」

 大垣のおじいちゃんというのは私の次兄であり、十六の歳から大工で鍛えた腕っ節が自慢で、六十九歳の今でもフルラインが出せるのである。

「どのくらい投げられるようになった?」

「DTの半分の半分くらい」

「そんだけ出れば上等さ」

「お父さんはなかなか渓流へ釣れて行ってくれないんだ、ギルはもういいよ。それに佐知子がいたずらしても僕が怒られるんだよ!」

 ポートランドからブエノスアイレスまでの普通なら長く退屈な空の旅も、渉のとめどないおしゃべりでまったく退屈することはなかった。

「どうだ、毛針巻いてきたか?」

「うん、ちょっと少ないけど、なんとか巻いた」

「どれ、見せてみれ」

「僕の巻いたのはこれ。あと、おじいちゃんがこれなら釣れるって」

「うわははは、こりゃスゴイ!剣羽根じゃないか!」

 兄貴の巻いた毛針を見るのは実に四十数年ぶりである。ハラリと巻いた剣羽根のハックルとゼンマイ色のダビングが懐かしかった。

「おじいちゃんが、山の家にあった道具箱から出してきてくれたんだ。でも、お父さんはアマゴなら赤いエッグフライで十分だろうって」

 山の家というのは、田舎にある私たち兄弟の生家であるが、すでに人は住んでおらず、過疎も行き着くところまで行って、村そのものが無くなっているのである。

 ブエノスアイレスで飛行機を乗り継いでコルドバまで。そこで車を借り、チャンパキー山を望むリオテルセロの町までのドライブ中は、さすがに疲れたのか渉は眠りこけていた。

 フォードの新型四駆、エルドラドも、Hエンジンの改良が進んだようで一頃のパワー不足もかなり改善され、なかなか快適だった。

 リオテルセロの町に入ると、あちこちに"FishingRodge"とか、"PerfectTrout"とか書かれた看板が目に付いた。その中に混じって、「アマゴの宿」という日本語の看板を見た時には、話には聞いていたがさすがにびっくりした。

 宿の玄関に車を付けても渉は眠りこけているのでたたき起こす。

「渉! 着いたぞ!」

 宿の主人は懐かしの曙関そっくりの体躯と顔立ちである。こちらもウロ覚えのスペイン語でなんとかあいさつし、初めて見るアルゼンチンの田舎料理に絶句する渉をなだめて腹ごしらえをさせた。

 明日はいよいよテルセロ渓谷のアマゴ釣りである。果たして水の具合は?

 私がこの町を訪れたのはもう二十五年ほど前のことである。水質と土壌の調査、それも鉱毒の影響調査で当時ウチの会社のオフィスのあったサンパウロからはるばるコルドバまでやって来てそこに仮事務所を設け、ここら一円の水や土を採りまくっては分析したのである。鉱毒の原因は調べるまでもなく予想がついていたのだが、とある日本企業であったので、ブラジルの調査会社に勤めていた日本人の私はいろいろな意味で苦労させられたものである。

 調査結果の提出のあと、訴訟やら賠償金やらなんだかんだですったもんだして、決着がつくまでには六年がかかった。その後、汚濁防止の処理場工事も無事済んで、十五年ほど前には水質がもとにもどったという記事をSat-Net-Newsで読んだことがある。

 それからすっかり忘れていたのだが、'25年冬のFLYFISHERMANの表紙をこの渓谷のアマゴが飾った時には驚かされた。アルゼンチンの渓谷でアマゴが釣れることにも驚いたのだが、ヒゲのアメリカ人が誇らしげに抱えたアマゴの大きさと色の鮮やかさが尋常では無かったのである。

 記事によれば、なんでも当時の駐アルゼンチン日本大使がかなりの釣り好きで、水質が戻ったのを機会に鉱毒被害のおわびのしるしとして何か地元に貢献できることはないかと考えたのがコトの始まりだそうである。

 大使はこの渓相、この水質なら鱒が住めるはずだと思い、レインボーやブラウンはよくある話なので、ここは一つぜひ日本の魚をと思ったのだが、その魚種を決め、移植する稚魚を確保するのになみなみならぬ苦労があったと聞く。

 いまだにここテルセロ渓谷のアマゴの産地は公式には伏せられたままなのであるが、日本の釣り人の間ではN大学の演習林のとある小さな沢からはるか地球の裏側まで運ばれたというのが定説となっているそうである。その時放たれたアマゴは、わずか十7尾だったと記事には書かれていた。

 その雑誌が出てからわずか三年で、アルゼンチンの辺境の町に世界各国から釣り人が年間数千人も訪れるようになってしまったのである。いくら地球が狭くなったとはいえ、釣り人の情熱と狂気には感心させられる。

 とはいえ、私と、兄の孫に当たるこの少年も、その狂気をはるばる持ち込んで来たのであるが。

 弾丸のような魚体が35センチを越えてもなお明瞭なパーマークの浮かぶアマゴが棲むのは、今や狭くなった地球のどこを探してもこの谷だけなのだから.....

 フォードを止めて、渉の手を引いて渓谷に降りる道を慎重に降りる。故郷の谷とは全く違う、乾燥したガレ場の小道はとても滑りやすい。前へ前へと急ぐ渉の手を引き戻すのもなかなか力がいる。渉も滑りやすいのはわかっているのだが、気が急いてしょうがないのである。無理もない、この私もそうなのだ。

 なんとか急な小道を降りた十一歳と六十六歳の少年が、いそいそと釣り支度を始める。河原の端で身を低くし、震える手でガイドにラインを通す。ガイドを抜かさぬよう気を付けて。

「渉、何を結ぶ?」

「もちろん僕のピーコック、12番!」

 なかなかの自信家である。

「それじゃぁおじいちゃんはこれだ」

 こちらも負けじと、はるか昔、夏の間はこれ一本で通した黒のパラシュート14番を結ぶ。なんとか渉の手を借りずに6Xがアイに通ったのでほっとする。

「あそこの瀬で、ちょっとキャストの練習をしよう。慌てなくていいから、明日も明後日もその次もあるから。ゆっくりな」

 ガバガバのウェーダーを履いた渉が、慎重にフォルスキャストを始め、乾いた石の間を流れる濃紺の流れに彼の素朴なフライをキャストする。

「うーん、上等上等。うまいもんだ」

と、声をかけたちょうどその時、渉がピックアップしかけたピーコックに飛沫が上がる。

「!???」

「出たなっ!」

「おじいちゃん!今のアマゴ?」

「そうだよ。もう一度、ゆっくり。今と同じ所だ」

 思わぬライズで、彼の身体にいきなりプレッシャーがかかったのがわかる。二回目のキャストは少し力が入りラインが水面を叩いてしまう。今のアマゴはまったく姿を見せない。ほぼ毎日、様々な言葉を話す釣り人にいじめられているここのアマゴは、さすがにかなり手強いようだ。

 今日は渉に初めての1尾を釣らせることが出来るだろうか?

 午前10時に川に降りて、それから長い夕暮れの午後8時まで、見事な魚影が幾度となく毛針に反応するのだが、いま一つ喰いがしぶい。一度掛け損なうと二度と出ない。

 丸一日二人でロッドを振りまくって私が1尾しか掛けていない。その1尾も痛恨の合わせ切れである。昔の3番では持たないだろうと4番ロッドを新調したのが裏目に出たようだ。合わせが強すぎる悪い癖も直っていない。

 石を裏返しても川虫があまりいないし、飛んでいるのを見かけもしなかった。

 渉は、昼過ぎからあまりしゃべらなくなってしまった。懸命にキャストしているのだが、実戦はほとんど初めての少年には、落差の大きく流れの激しいこの渓谷と野生のアマゴはいささか手強かったようだ。私もかなりの距離を、時には渉をおぶって遡行してきたので腰痛がぶり返し、いささか厳しい状況である。

「渉、あの淵をやったら今日は帰ろう」

「......」

「どうした?釣れないからって怒ったりあきらめたりしたらよけい釣れないぞ」

 渉と、自分に言い聞かせる。

「.....うん」

「さあ、もう暗くなってきたけど、もう一度フライをチェックしな」

 いくつもフライを無くしている渉は、とうとう兄の持たせた古い毛針を結ぶ。右利きの渉のため、がんばって対岸に渡り、慎重にポイントに近づく。

「あの、流れと石のぶつかり。あそこを狙ってみな」

 くたびれて力の抜けた渉の投げた剣羽根が、たまたまいいところに落ちる。しかし、あっと言う間に流れに飲まれて沈んでしまう。

「あーぁ!まーたダメだぁ」

『まだ上げるな!』と声を出す前に渉がロッドを上げかける。しかし、その一瞬、ロッドティップが大きく水面へと曲がり込む。

「渉!合わせろ!」

えっという顔をした渉がなんとか竿を立てると、ティペットが水を切って上流へ走り出す。

「おじいちゃん! 喰いついた!」

「慌てるな! リールを巻いてラインを巻きとれ!」

 渉が慣れぬ手つきで巻きとり始めた頃には上流へ突進した魚がラインをすべて引き出し、幸運にもリールファイトの格好になった。

「よーし、いいぞ! その調子!  いいか渉、とにかく竿を立てて、魚が左に走ったら右に、右に走ったら左に竿を傾けてこらえるんだぞ」

 少年にはいささか無理な注文を言い聞かせ、背中のネットをはずす。淵の奥底で、アマゴが独特のきりもみを見せ、銀色の腹が煌めく。

 と、今度は魚が下流に走り出し、リールが悲しげに鳴り出す。あいつをネットに収めるのはかなり難しいな....と覚悟させられる。

 私は渉の背後から、慎重に魚の下流へと回り込む。

「渉! 糸をたるませるな! 巻けたらゆっくりリールを巻けよ!」

 渉が真っ赤な顔でリールを巻いているが、幾度もアマゴは下流へ下流へと逃げる。本当は渉が下に回った方がいいのだがそれは無理だ。

 何分たったか、さすがのアマゴも水面近くまで浮かんでくる。もう一息で、やっこさんにも息を吸わせられるが!それまでティペットが持つか?

 しぶい今日のアマゴに対して6Xを使ってきたのが悔やまれる。私の姿を見たアマゴは再び下流へと突進を繰り返す。ドラグが鳴る。

「慌てないで! よーし、ゆっくりゆっくり!」

 なんとか渉はこらえきり、祈るようにネットを構えると、アマゴの頭と尻尾は完全にネットから出そうだ。

「よーし、もう少し! 気を抜くな!」

 行ける!と思って魚の下にネットを差し入れた瞬間、ティペットが切れ閃光がきらめく。

「むんっ!」

 ヤマ勘で光の方向に差し出したネットに重みが飛び込み、バランスを失って倒れながらもネットだけは空中に掲げる。

「やったーっ!」

 顔まで濡れながらなんとか流れから立ち上がり、渉にネットを差し出す。

「おじいちゃん、僕釣ったよ!」

「ああ、よくやった!偉かったな!」

 息がおさまるまで、二人して黙って魚を見つめる。アマゴもネットから尻尾がはみ出したまま、ハクハクと荒い呼吸をしている。ティペットが切れたと思ったのだが、針先が折れている。いやはや、兄貴の執念だったか。

「ごらん、これがアメノウオだよ」

「こんなにきれいな魚だったんだね」

 何十世代の養殖で、かつてのニジマスと同じように繁殖能力を失ってしまった日本のアマゴやイワナの丸いヒレが思い出された。

 写真を撮ろうと胸のポケットからカメラを取り出すと、さっき転んだ時に濡れてしまったようでうんともすんとも言わない。むろんストロボも光らない。

「渉なぁ、おじいちゃんのカメラだめになっちゃったから、このアメノウオをよーく見て、しっかり覚えておくんだよ」

「うん」

 竿をたたみ、夕暮れのチャンパキー山を背に、ガレ石の小道を休み休み上りながら、兄の孫に問いかける。

「渉、魚の名前の漢字をいくつ知ってる?」

「おじいちゃん、お寿司屋さんみたいなこと聞くね。 えーとね、サカナさかな、鯉でしょ、あとはね、鮎と、うーんと、鰻かな」

「おじいちゃんが、今日お前が釣ったアメノウオという魚の漢字を教えてやろう。いいか、魚偏に完璧の完って書くんだ。

「ふーん」

 あのアメノウオの体側に浮かんでいた朱点。濃紺の背、銀白の腹、そしてパーマーク。その輝く魚体に、造物主の絵筆がたった今、鮮血の滴を垂らしたように盛り上がる大粒の朱点が、この渓谷と少年の心にいつまでも残ることを、私は、願う。


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