エッセイ

最強の先行者

夜通し車を走らせていつもの空き地に車を入れると午前4時である。夜が明けるにはもう少し間がある。

「川本君、ちょっと寝るか」

「うん、5時に起きよう」

と、仮眠をとるつもりで眼がさめたら朝の6時半である。

「ややっ! こりゃ寝過ぎたぜ!」

「あっ、本当だ!」

 二人して慌てて身支度を整えて河原に降りるとすでに7時を回っていた。幸い先行者は無いようである。

 例によって、降り口のちょっと下から狙うべく、河原を少し歩いていくと、はるか下流でだれかが石に座って弁当を広げているのが見えた。

『やれやれ、あんなところで餌釣りの人が弁当食べとるわい......』

 となれば、あんまりゆっくりとポイントをまんべんなく攻めているわけにも行かないので、上流の川本君の後を追うことにする。この川は、ここから上流には林道からの降り口が無く、行けるところまで行って、あとは川伝いにまた戻ってこなくてはならないのである。

 先行の川本君にも芳しい当たりは無く、ライズも見られないまま、8月の朝の渓を遡行してゆく。後ろでは、餌釣りの長い竿が見えかくれしながらだんだんと距離を縮めてくる。

 支流の合流点で、一瞬餌釣り人の姿が見えなくなった。

『やれやれ、あの沢に入ってくれたか。助かった。』

 と、ほっとして、再びのんびりとキャストを楽しむ。ところが楽しめるのはキャストばかりでヒットやファイトはお預けである。どうやら、このところの渇水と高温で魚もシビアになっているらしい。あの7月上旬の熱狂的なライズが嘘のようである。

 毎度お馴染みとなった淵の流れ込みで、川本君が小さめのイワナを1尾掛ける。当たりが遠のいている今日の我々にとってはとても愛しい1尾である。

 今日の1尾目の魚の顔も見れたし、さぁ!これから....と思っていると、なんと、下流からさきほどの餌釣りの人がかなりのハイペースで追いついてくる。歳の頃なら40歳代後半のおじさんである。(人のことは言えないが.....)

『やや、困ったぞ。あのおじさん、俺たちを追い越して行く気か? そりゃないぜ、ここから先は道が無いから、やりすごして上流へ回るわけにも行かないし....』

 などと思っている間におじさんは我々に追いついてしまった。ところが先方も先行の二人を無視して上流に向かうわけにも行かず、こちらもわざわざ声を掛けるわけにも行かず、気まずい雰囲気の中で三人の釣り人が押し黙って釣る状態へと膠着してしまった。

 魚はあまり多くないが、なにより釣り人が少なく渓相がすばらしいのが我々のホームグラウンドであるこの川の取り柄なのだが、このご時世では人に会わずに釣りを楽しむ....そんな贅沢は言っていられない。

 と、川本君のリーダーが絡まってほどきにかかったので、私が先行して釣り始める。後ろでは、おじさんが川本君に話しかけ、なにやらしゃべっているようだ。

 二人の視線を背中に浴びながらやや緊張してキャストしていると、どうやら二人は話をまとめたらしく、おじさんは軽やかな足どりでスタスタと上流へ向かっていった。私も、三人三つどもえで陰うつな釣りを続けるのはかなわんな....と思っていたので、内心ほっとして川本君にいきさつを尋ねた。

「あのおじさん、上流まで歩いて行って、水無谷に入りたかったんだって。それまでの区間では竿を出さないって行ってたから、ゆっくり上がっていけば釣りになると思うよ」

「ふーん、水無谷ねぇ...。餌釣りの人はどうして沢へ沢へと行きたがるのかね?」

 などと勝手な事を言いつつ、また、二人のんびりとフライフィッシングを楽しむことにする。

 なんと言っても渓流釣りの楽しみは、自分に合ったリズム、あるいはテンポを五感と体全身で味わうことに尽きるのではないかと思う。

 春まだ冷たい流れの中で、梅雨時の豊潤な湿度の中で、真夏の太陽の照り返しの中で、ハラハラと舞い落ちる木の葉の動きの中で、ひと足進めるごとに新しい景色を目の前に広げてくれる渓流に抱かれながら、私たちは、流れのリズム、石を渉るリズム、キャストするリズム、ラインがフライを導いて水面に着水するリズム、魚がフライをくわえるリズム、釣った魚をリリースしてネットの滴を払い落とし、再び歩き出すリズムを満喫するのである。

 そう考えると、手にしたロッドは、まるで指揮棒のようにも思えてくる。山と渓はコンサートホール、流れはステージであり、魚たちは演奏家である。ロッドの動き一つできまぐれな演奏家の関心を引き、すばらしいファイトを奏でさせることもあれば、失意のうちに彼らを沈黙の中へと追いやってしまうこともある。

 観客はいない、いるとすれば指揮者である私たちが観客であろうか.......

渓流釣りのリズムは、餌釣りでもルアー釣りでも、テンカラ釣りでもフライフィッシングでもテンポこそ違え、等しく存在すると思う。

 つらいのは、不意の先行者やなんらかのアクシデントで、このリズム、自分だけのリズムが乱されることである。魚が釣れないだけならあきらめもつくが.....

 しかし、今の時代に誰もいない渓流で自分だけの釣りを楽しもうと言うのは無理な相談であろう。

 おじさんが上流へと歩み去ってからも不調は続き、まともな岩魚に出会えないまま、上流へと釣り上がる。

「出ないねぇ.....」

「やっぱり8月に入ると朝早くと夕方しかダメかなぁ.....」

 いくら竿を出していないとはいえ、狭い源流部でさっきおじさんが歩いたばかりとあっては、素朴なここの岩魚も警戒して石の奥深くにじっとしているのかもしれない。

 ふと上流を見ると、さっきのおじさんが、上流へ向かった時よりも早い足どりで一目散に戻ってくるのが見えた。

「ありゃりゃ? こりゃ俺たちより先行した4~5人の大素人集団でもいたかな?」

 この頃はかなり奥深い渓流部でも、なんとでっかいコールマンなんかのクーラーボックスをかわりばんこに運びながら集団で竿を出している釣り人もいるのである。

 などと思っているうちにおじさんは私たちの所まで下って来て、物も言わずに竿をたたみ始めた。私もおじさんの様子がタダゴトではなさそうだったので、ラインを巻きとって声を掛けた。

「どうしたんですか?」

「出会った」

「誰か大勢で釣っていたんですか?」

「熊に出会った」

おじさんは見る間に竿をたたみ、仕掛けを糸巻きに仕舞い、あたふたとリュックをかつぎ直して私たちを見た。

「熊が出たんですか?」

「出た」

「どのへんで?」

「でっかい流木が川をまたいでいるあたりで」

 いやはやこれはこれは....と思っておじさんの話を聞いていると、川本君も追いついてきた。

「熊がいたんだって」

「えーっ! 熊ですか!?」

 私たち二人を見ておじさんも少し人心地を取り戻したのか、訥々と状況を話してくれた。

 おじさん曰く、上流までスタスタと歩いて行って、流木があったので迂回しようとひょっと上流を見ると、自分の歩いている方の岸辺に黒いかたまりを見つけた。

 あれっ? と思ったときにはそのかたまりが振り向いてじっとこちらを見つめてきた。やばいと思ったがまだ距離もあったので、じーっと見つめていればそのうち逃げ出すかなと期待したが、いっこうに逃げないのでこちらが恐くなってとうとう今日の釣りはあきらめて戻ってきたとのこと。

「その流木から上流はまだやっていないかから、今から行けば釣れるよ」

 と、言い残してK市から来たというおじさんは再びスタスタと川を下っていった。

「どうしよう?」

「うーん、弱ったねぇ.....」

 まだ熊がそのあたりにいるとすれば、熊に出会わずに釣り上がることはできない。

「でもさぁ、見てみたい気もするよね」

「うーん、やっぱ....やばいんじゃないかなぁ......」

 一瞬、至近距離から撮った熊のアップがホームページの材料になるな....などと考えたりしたのだが、それが私の撮った最後の写真になるかもしれないのである。

「帰ろうか.....」

 お互いその言葉を待っていたような気もしたが、すんなり合意して私たちもロッドをたたみ、今来た河原を歩いて戻ることとした。

 まだ朝の10時前であり、今日一日の予定がすっかり狂ってしまったが、いきなり熊とご対面! にならなくて本当によかった。今朝、眠たいのを我慢して明け方から入渓していれば、今頃血相変えて河原を下っているのはK市のおじさんではなく私たちの方だったのだから。血相変えるどころか血まみれの顔になっていたかもしれない。

 その後私たちは早めの昼食をとり、ゆっくり昼寝をすることにした。サラリーマンは気楽な稼業と言いつつも、金曜日の仕事を終えてから夜通し200kmの道のりを車を飛ばして駆けつけるのもなかなかつらいものがある。

 ぐっすりと寝て、起きると午後3時であった。少し日が短くなってきたのを考慮に入れて、通称アマゴの淵から入って夕まづめの釣りを暗くなるまで楽しむことにする。夕まづめの釣りを安心して楽しむには、釣り上がる時間の配分と谷からの登り口の位置を正確に勘案することが重要となる。

 すでに何度も訪れて勝手知ったる本流部での釣りは気楽なものである。まぁ、源流部と違い、アマゴの淵のあたりは人も多いから熊は大丈夫であろうというのが本日の作戦会議の結果であった。

 アマゴの淵というのは私たちが勝手に付けた名前である。今年の6月、初めてこの川の本流部をフライで攻めた私たちが、あまりに教科書通りに淵の真ん中、流心の中から形の良いアマゴが飛び出してきたので「アマゴの淵」と呼んでいるのである。以来、この淵を訪れるたびにお約束のようにアマゴが顔を出してくれた。

 今日は、川本君が下流から攻めることにする。この淵は右利きの彼の方が攻めやすいのである。

 彼の必殺パラシュートが18ftのリーダーに結ばれて流心に落ちる。ふわーっと流れ出すフライが核心に近づいたところでキラッと閃光が走る。

「むっ!」

 一瞬あわせが遅かったようで、魚は掛からなかった。もう数回流してみたが、どうも見切られているようだ。

「うーん、こっすいねぇ!」

 川本君が、今度は上流にスタンスを移し、斜め下流へとフライ先行で流してみることにした。パラシュートのピンクのウィングが流れてゆき、さっきの核心部分のすこし上流でいきなり水面が割れる。

「ヒット!!」

「お見事!」

 端から見ていても会心のキャスト、そして合わせであった。心地よさそうな振動が彼の真新しいバンブーロッドをしならせ、青い魚影が淵の奥深くできらめいている。

「アマゴだよ!」

「いい型だね!」

「今日も教科書通りだわ!」

「困った時のダウンクロス!」

 そんな格言をでっち上げながら二人で笑い合った。

 川本君の見事なヒットに私も気をよくして、この淵の流れ込みでまずまずのアマゴを掛けることができた。なんとこの1尾は掛けた瞬間に横っ飛びにジャンプを見せてくれた。

 そこここでライズがあり、型のいい岩魚やアマゴが顔を出すのでわりと丁寧に釣り上がっていくと、思ったより早く8月の夕暮れが迫ってきた。まだ、谷の登り口まではだいぶ距離がある。

「ちょっと、ペースを上げようか」

「うん、急ごう」

 本当に狙い目のポイントだけ攻めるようにして釣り上がって行ったのだが、7時15分頃にもうあたりは真っ暗になってしまった。まだ登り口までは20分以上かかるだろう。

「川本君、暗くなったで竿たたもうか」

「うん、いいよ」

 二人とも言葉には出さないが、夕闇にうごめく黒いかたまりのことを思わずにはいられないのである。たまたま二人とも非常用の笛を持っていたので、ピーッ、ピーと鼓笛隊のリーダーのように吹き鳴らしながら闇の帳に覆われた河原を、林道への登り口目指して歩き出した。

「ピーッ、ピピーッ」

「笛吹きながら歩くのってけっこうエライね」

「ピッピピピーのピッピッ」

「あーしんど!」

「ピーッ、ピピピーッ」

「だけど、やっぱりアマゴの淵は魚がいるね」

「うん、いつ来ても出るよね」

「ピーッ、ピピーッ」

「本流はのびのびとフライ振れるよね」

「フライ向きの川だね」

「ピッピピピーのピッピッ」

 はたから見ればおかしい光景だが、当人たちは真剣なのである。

「あれ?」

 川本君がふと足を止めた。

「どうしたの?」

「伊藤さん、これ見て」

 川本君がライトで照らす岸辺の砂地には、いくつかの足跡が残っていた。その足跡は、まだ水に濡れて黒ずんでいる。

「!!」

「.....」

 大きさは大人の手のひらぐらい、釣り人の長靴の跡でもカモシカの足跡でもない。無論サルの足の大きさでもない。その足跡は流れから岸辺に上がり、上流へと向かい河原が石になった所で消えていた。

 もう二人とも何も言わなかった。しばらくあたり一面をライトで照らして様子を探った後で、林道への登り口めざしてひたすら歩き出す。真っ暗な流れを渉り、大石を越え、流木をまたぎ、笛を吹きまくりながら歩く。

 森の木立の間には真っ黒な闇が広がり、たとえその中に黒いカタマリが息づいていてもまったくわからないであろう。

 いまにもライトが照らすその先に二つの鋭い目が光るのではないか、これから渉る対岸の闇に何かが動いているのではないかと疑心暗鬼となる。

「ピピピーッ!....ゼイゼイ....ハァハァ.... ピーッ!ピピピーッ!」

 笛だけが頼りと二人懸命に吹き鳴らしながら歩く。右手にロッド、左手にライト、口に笛をくわえて休む間も惜しんでひたすら歩いてゆく。

 熊らしき足跡を見てから15分ほど無我夢中で歩き、もう少しで登り口というところで、大きな流木が河原を塞いでいる。朽ちた大木の向こうに何かが潜んでいることを恐れ、二人とも途切れることなく笛を吹き、大声で何かを叫びながら幹の向こうに回り込んだ。もはやこちらもケモノじみている。

 大きな淵の尻を渉れば林道へ続く杣道の登り口である。しかし、その登り口の向こうには黒々とした木立が我々を待ちかまえている。いくら熊でも、ただの斜面よりは人の歩く杣道や沢の方が通りやすいのではないか?

 淵のこちら側で息をつきながら、いつまでも休んでいるわけにもいかず、意を決して木立の中へ続く踏み込むことにする。

「行こうか」

「うん」

 慎重に木々の間をライトで照らし、うごめく黒いものも、輝く二つの眼光も無いことを確かめて、よいしょと急な道にかき登る。一足ごとにライトを照らし、斜面に生えた枝に掴まり、笛を2回吹いては足を進める。杣道がやがて沢となり、沢を登りきると林の中の平場に出た。林道まではもう少しである。

「ピーッ、ピピーッ」

「ピッピピピー、ピッピッピー」

 林道への最後の急坂を上っているとどうしても息が切れて笛を吹く余裕が無くなる。それをこらえながら、懸命に笛を鳴らし、ようやく林道へと登り着くことができた。

「あーっ着いたぁ!」

「林道に着いたぜぇ!」

 二人とも疲労困憊し、膝に手を付いてゼイゼイと息をつぐ。

「まぁ大丈夫だらぁ....」

「うーん、まあいいと思うよ」

 ようやく息が収まり、再び油断なく、林道を歩き出す。ところが林道のカーブを曲がるたび、その向こうにまたあの足跡の主が潜んでいるのではないかとの疑いがわき起こり、自然と足が速まってくる。

 無言でスタスタと歩きながら、K市から来たというおじさんの青ざめた顔が思い出された。そりゃぁ熊と間近に対峙すれば、いささかビビるわなぁ。

 ようやくライトの向こうに川本君の車の反射板が赤く輝いた。二人とも思わず小走りになって車に駆け寄る。川本君はモノも言わずにドアを開け、エンジンをかけライトをつけてクラクションを三度鳴らした。

「あーっ良かったァ!」

「着いたねぇ!」

 なんと長い帰り道であっただろうか?

「笛あって良かったよなぁ!」

「まったく!」

 川ではぐれたときや、夕まづめに互いの位置がわかるようにと身につけていたプラスチックの笛がこれほど頼もしく思えたことはなかった。

 ライトをつけた車のそばでウェイダーを脱ぎながらそれでも安心できずに笛を鳴らした。

 すべて着替えて荷物を車に仕舞い、逃げるように走り出すと川本君が急に車を止める。

「どうしたの?」

「竿忘れた」

 彼はドアを開け、車の屋根に置き忘れたロッドをケースに仕舞いながら苦笑した。

「やっぱ、まだびびっとるわ...」

「あははは、いやぁ俺もまだおっかないよ」

「あはは、ほんとほんと」

 いよいよ車は帰途につき、長い林道を抜けて国道に出た頃には二人ともようやく安心して軽口を叩き始めた。

「俺、こんど熊避けの鈴を買ってくるわ」

「俺も。爆竹買ってビニール袋に入れて持ってこようかな」

「痴漢よけの電子ベルなら吹かなくていいから楽じゃない?」

「伊藤さんが痴漢よけの電子ベル買ったらおかしいことない?」

「それどーいう意味?」

「あはは、冗談冗談.....」

 あの恐怖の夕まづめから帰還して、秋も深まった9月の渓流に向かう私たちのベストのポケットには、熊よけの鈴、痴漢撃退用電子ベル、強力ヘッドランプなどが出番を待っている。

 幸いにして、その後、毛むくじゃらの先行者とは出会っていない。

1998/10

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