エッセイ

掌の水

 グラバー邸へ向かう橋の上から、長年の癖でちらっと水面を一瞥すると、無数の波紋が群れながら移動している。中にはずーっと口を出したまま泳いでいるのもいる。

 体長はおよそ30~40cm。時折水中で身をくねらせる魚影はボラだろうか? なんと言ってもカラスミの町なのだから。

 およそ百尾ぐらいは群れているようだ。うーん、ハスルアーでも投げれば一発じゃないか? と悔しい思いをする。

 昨日、この街で育った友人の結婚を祝う会に出席して、今日一日は市内見物をする旅なので、釣り具は持って来ていない。

 グラバー邸の前では大勢の観光客が記念撮影をしている。邸の中には、密談する坂本龍馬の人形や、グラバー家の紹介、当時の調度品などが陳列されている。

 庭へ出ると、長崎湾を一望できる絶好のロケーションである。

 造船所のドック、山並みから連なる家々の屋根、湾から届く涼しげな風。グラバー氏は、百四十年の昔、この屋敷の庭に立って、何を思っていたのだろうか?

 はるか異国の地に渡り、数々の産業を興し、多くの志士たちと激動の時代を生きてこの国を動かしたグラバー氏の思い、壮大な意志に感銘を受ける。

 恥ずかしながら今日ここを訪れるまで、坂本龍馬と関わりのあった外国のひと、ぐらいの知識しかなかったので、今度ぜひ彼のことを調べてみようと思う。

 再び市電に乗って、眼鏡橋へと向かう。市電を降りて中島川まで来ると、ここでもボラが泳いでいる。橋詰めの中華料理屋さんで名物の皿うどんをいただく。このお店は新郎の友達から教えてもらったのである。

 この頃食欲がなくてさぁ、などと言いながら食べ始めたのだが、細めんの皿うどんをゆっくりと、しかし着実に平らげ、気がついたら友人のちゃんぽんのスープまで飲み干してしまった。今度長崎へ来たら、真っ先に共楽園へ駆けつけよう。

 お店を出ると、絶好のシチュエーションで眼鏡橋が見える。ついつい職業意識が顔を出し、石積みの細部構造だとか、護岸との収まりなどに眼が行って大量の写真を写す。

 三百年以上も前にこの美しい橋が架けられたと思うと感無量である。上流の橋の下では、色とりどりの無数の鯉が泳いでおり、観光客の手から落ちる餌をめがけて例の魅力的な唇を突き出している。

 あの場所からキャストしてヒットしたら少なくともあそこまでは走られるな.....などと禁断の想像を巡らせる。

 この手の許されざる妄想は、高山市内を流れる川でも白川村の家並みを流れる用水でも泳ぐ魚を見る度に沸き上がるので始末が悪い。ティペットとかロッドの番手にまで想像が及ぶと重症だナ、などと考えつつ鯉の群を見ているとあっと言う間に時間が経ってしまった。再び市電に乗り、原爆資料館へと向かう。

 ぐるりと円いスロープを降りて展示室に入ると、闇の中に、ひしゃげた柱時計が11時2分を指して止まっている。

 折れ曲がった鋼鉄の櫓、

 崩れ落ちた天主堂の像のまなざし、

 溶けた瓦、

 呆然とたたずむ少女の足もとに横たわる亡骸、

 火球の広がりと衝撃波、

 建物に焼き付いた兵士の影、

 子どもたちの作文、

 ロシアの広大なウラン鉱山、

 アリゾナの砂漠にぽっかりと開いた地下核実験の大穴、

 冷戦の終結が生んだ地域紛争の数々.......

 そして、圧倒的に雄弁な沈黙を誇りながら屹立するファットマンと、来館者の頭上にのしかかる巡航ミサイルの模型......

 資料館を出て、同じように黙り込んだ友人たちと、平和公園へ歩いて行く。秋を彩る花々の咲き乱れる花壇の階段を登ると、噴水越しに像が見えた。噴水を越えるとだんだんと像が大きく見えてくる。芝生の合間に、吹き飛ばされた当時の刑務所の壁や錆びた鉄筋が、そのまま残されている。

 平和の像の基礎の部分は、広い泉になっており、静まった水面から御影石の表面を伝ってひっそりと波紋を作りながら水が流れ落ちている。

 黒い御影石の表面に手のひらをあてると、手首から二の腕へと絶えることなく水が流れ伝ってくる。

 この水を飲みたかった大勢の人の声が聞こえるようで涙がこらえられず、ハンカチを忘れたのでシャツの肩で拭いた。

 午後4時の特急で博多へ、そしてのぞみ500系を乗り継いで名古屋へと帰ってきた。永井博士の本とお土産のカステラや明太子で重くなったデイパックを抱え、駅の階段を降りる。

 カラスミをわざわざまた煮てダメにして......という歌の文句を思い出しながら、あの時計が止まってから53年が経った今日この一日の平和のありがたさと脆さを思う。

 8月の暑い盛り、イワナ釣りの合間に、沢筋から落ちてくる水を掌で受けて飲むたびに、あの長崎の水を思い起こそう。

 再来年の夏も、その次の夏も。

1998/10

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