完敗、マウンテンリバー

1997/01/15(WED)-1

 水曜の朝を迎えいよいよマウンテンリバー最後の日である。パンとコーヒー、ベーコンなどの朝食もそこそこに釣り支度を整える。松延さん夫妻もやる気十分である。テントは畳んでしまい込み、その他の荷物もいっさいがっさいヘリの降りる河原に運んでシートを掛けておく。

 午前8時半、デビッドとテントサイトの前から左岸側を釣り始める。ヘリが迎えに来るのは午後3時と言うことなので、およそ6時間に全てを賭けるのである。

 今日は朝から快晴。しかし、昨日の雨で再び水位は上がりうっすらと茶色に濁っている。そうは言ってもここまできたらヤルシカナイ。

 ビルとデビッドの協議による今日のアドバイスは、大胆にもリーダーをバット部分の60cmほどを残して切り落とし、そこに18フィートの3Xティペットを結ぶという変則リーダーシステムである。彼の言うには私のリーダーは巻き癖が付いていて魚を脅かすので良くないとのこと。しかし、それにしても、これをうまく投げられるのだろうか?確かに魚を驚かす度合いは低いだろうけども。郷にいれば郷に従えとの諺もあるが、しかし?

 30分ほど釣り上がり、早い流れが向こう岸に向かって流れ、こちら側には一筋の支流が流れておりそれが岩に当たっているちょっとした深みで、デビッドが鱒を見つける。しきりに体を動かし、餌をあさっている。これも60cmは越えているだろう。

 ニンフから始め、およそ手持ちのフライを投げ、デビッドの勧める数種類も試したが、鱒が近くにいる割には流れが複雑で、自然にフライを流すことが出来ない。いい位置にフライが落ちても、手元に落ちたラインがすぐにフライにドラッグをかけてしまい、鱒の目前からフライを引っ張り寄せてしまう。正しく真上から、優しいプレゼンテーションを心がけるつもりでキャストすると、変則リーダーシステムではうまくターンオーバーが決まらず、なよなよとだらしなくフライが鱒の後ろ側に落ちてしまう。背後のデビッドが、

「Frustrated. あーイライラするなぁ。」

 と舌打ちするのが聞こえる。中途半端に英語が分かるとかえって苦労するのである。そんなこと言われても、こっちだってもっとイラついてんだ。と叫びたいのを堪え、群がるサンドフライの噛み付きを堪え、ひたすらキャストを続ける。

 デビッドが、苦しいときのクリケット頼みという感じで、ビルからもらったクリケットフライを差し出す。昨日までの釣りで、デビッドのクリケットはすべて私が無くしてしまっていたのである。もはやサンドフライも眼中になく、ひたすらフライを結び、ままならぬリーダーで必殺のキャストをすると、偶然良い場所に落ちたフライめがけ、茶色の魚体が向きを変え、大きな口を開けた。その瞬間! あろうことか私は思いきり早合わせをしてしまい、まだ閉じ切らぬ鱒の口からフライをひっこ抜いてしまったのである。

 無言で立ち尽くす私に、デビッドが駆け寄り、

「いいか!ワン・ツウ・スリーだぞ!じっとがまんして、鱒がフライをくわえて向こうを向いてからしっかり合わせるんだ!」

 と念を押す。何ともはや、私は10歳の少年のように上目づかいでデビッドの顔を見るしかなかった。

 ブラウンの遅合わせについては、幾度となく人から話を聞き、幾冊もの本や記事を読み、完全に理解していたはずの私が、この千載一遇のチャンスに失敗してしまった。これからは頭と口ではなく、体で生きることを学ばなければならない。

 その後、未練がましくクリケットをキャストしたものの、鱒は完全に無視して平然と泳ぐのみであった。デビッドと二人、重苦しい進軍が続く。

 午後2時25分、二つ並んだ大岩のある流れで、デビッドが鱒を見つける。おそらくこれが最後のチャンスだろう。慎重に茶色のパラシュートを流す。反応無し。次はピューパタイプのニンフを流す。これもダメである。日も高いし、思い切ってハンピーで行くかということで、黄色のハンピーを結び、数度かのキャストを繰り返すと、どこへともなく鱒は逃げ去ってしまう。デビッドが、お手上げ!という感じで肩をすくめる。

 午後2時40分、広い河原に出たので、デビッドは、ここでヘリを待とうと言う。荷物を置いて一服し、身軽になって最後の10分に賭け、広い瀬の岸辺沿いの木立の陰を狙う。強風に苦しみながら、流れと石の際にフライを送り込むが、全く反応は無い。あともう少し!と思っていると、デビッドが後ろから

「もうじきヘリが来るから戻ってこいよー」

 と叫ぶ。うーん、仕方がない。マウンテンリバーでは完敗だ、あきらめよう。ラインを巻き取る音がむなしく響き、竿を納める。

 デビッドと二人、日差しの強い河原に座って、言葉もなくヘリを待つ。彼はリュックから、古いキャノンの一眼レフを取り出し、川の風景を2枚写した。

いつかこの日の雪辱を

 私も河原に立ち上がり、いつかこの日の雪辱をはらそうと思い、遠くの山並みを写した。森と川は、あまりにも穏やかだった。

 ヘリの甲高い音が近づいてきて、黒い機体が陽光にきらめいた。急降下した機体が水しぶきを上げて中州に降り立つ。二日前と同じように体を低くして乗り込む。もはやヘッドフォンを付ける気力はなく、ぐったりとパイロットとデビッドに挟まれて座っているだけである。

 ヘリが舞い立ち、少し上流に向かうとビルたち三人が河原にいるのが見えた。指さすと、パイロットが頷いている。再び降下して三人をピックアップし、テントサイトへと舞い戻る。テントサイトのシートの掛かった荷物の所でビルたち三人を降ろし、デビッドと私を載せたヘリは牧場のヘリポートへと急ぐ。

 眼下には、今日まで三日間苦闘したマウンテンリバーの流れが続き、遥かに続く平原と青く霞む山脈とが見える。カメラをリュックに入れたのを悔やみながら、つかの間のフライトを名残惜しんだ。ヘリの機上からでも、注意すれば川底の鱒たちが見えそうな気がした。いつかきっと、再びこの川を訪れることを堅く心に誓って、シートベルトを握りしめた。

 牧場が近くなり平野に出るとマウンテンリバーの渓相はみるまに単調になり、小さな砂利が敷き詰められた浅い流れになった。牧場側の岸辺に、大岩を並べて造った護岸と張り出した岩組の水制工とが見えた。ニュージーランドにも護岸はあるのだなと感心した。経済的かつ効果的な河川構造物であった。日本の川、日本の国は、誰のためにあるのか。

 ヘリが舞い降りて私たちを降ろし、ビルたちを迎えに飛び去ると、あたりは二日前と全く同じ、のどかな昼下がりの牧場である。

 重い長靴を脱いで裸足になったデビッドが、暑く灼けたスバルを動かしてきた。荷物を載せてから、しばし彼と話し合う。

「何が悪いんだろうか? 私の釣り方は?」

「うーん、そうだな、まず正確に目標との距離を測ること。これが第一。次に、自分のキャストの距離をしっかりと把握すること。これが第二。あとは経験するしか無いな」

「日本へ帰ったら、もっともっと練習を積むことにするよ」

「まあ、この二、三日の状況は特別だよ。気圧のせいだと思うけど。いつもは魚もあんなにシビアじゃないんだけどなぁ。ロイヤルウルフだけ投げればパカパカに喰う日もあるんだ」

 そう言ってくれるデビッドの言葉も、二人して60cmオーバーのブラウントラウトを6尾以上釣り上げた松延さん夫妻のことを思うと、むなしく私の耳を通り抜けてゆくのであった。デビッドはこんな話もしてくれた。

「去年のことだけどな、別の川に日本人のお客を連れていったんだ。大きな淵の上手と中央、そして淵尻に3尾の大きな鱒が泳いでいるのが見えた。で、まず下流の鱒から狙うことにした。お客が慎重にキャストしたんだが、あいにくラインで鱒を驚かせてしまった。するとどうだい? その鱒は上流へ泳いで2尾目の鱒と一緒になり、続いて3尾目の鱒も連れて脱兎のごとく淵から下流へ逃げ去ってしまったんだ。さすがにあの時は俺も自分の目を疑ったよ。けど本当なんだ。それぐらいこの辺のブラウンはずる賢いのさ」

「あのくらい大きな鱒だと、何年ぐらい生きているのかな?」

「うーん、はっきりとはわからないが、10年以上は生きているだろうな。正確に調べるには顕微鏡で鱗の年輪を調べる必要があるだろうな」

 うーん。ニュージーランドの釣りは初めての私には、マウンテンリバーの鱒はいささかタフであったようだ。さあ、行くとするか。デビッドのスバルが農道を走り出す。

 幹線道路へ出たところで、デビッドが雑貨屋へ寄った。質素な雑貨屋は店番のおばさんが一人で棚の整理をしていた。店の中を見ていると、隅の棚にバースデイカードやらクリスマスカードやらがたくさん並んでいた。空港の売店のとは違い、いかにも生活感のあふれる地味な水彩画の色合いが気に入ったので、カードと封筒のセットをいくつかお土産に買った。

 デビッドがソフトクリームをおごってくれたので、それをほおばりながら店の窓に張られた広告を見ていると、ジュースや洗剤、缶詰などは日本よりも二から三割ほど安いようである。デビッドが、日本では中古の4WDはいくらぐらいするかと聞くので、うーん、程度にもよるけど、安いのなら150万円ぐらいからあるよと言うと、彼はしきりに感心している。ニュージーランドは農業国であり、車などの輸入品はとても高価なのである。

 すれ違う車は、新しいのもあるがたいていは中古車であり、中には日本ならば廃車置き場でも見られないようなすさまじい状態の車が走っている。一度、ブルナー湖のそばでボンネットのないまま走っている車を見たことがあった。

 などと話しながら、車をモアナに向けて走り出すと、デビッドのスバルのスピードメーターはみるみるうちに上がってゆき、なんと180km/hを振り切ってしまうのである。窓から手を出してみてもそんなにスピードが出ているとも思えず、きっとメーターが壊れているのだと思った。交差点で一旦停止をする直前までメーターの針は時速80キロを示していたのである。


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