釣行日誌 NZ編 「その後で」
氷河、再び
1999/12/16(THU)-1
翌16日の朝は6時に起きて朝食をそそくさと済ませ、6時半にはボートを牽引したブリントの青いハイラックスで南へと出発した。同時刻に勤めに出かけるディーンがトレーラーの準備を手伝ってくれた後で、
「しっかり釣って来いよ!」
と激励してくれた。
ステートハイウェイ6号線と書くと聞こえはいいのだが、単なる2車線(片側1車線)の道路である。舗装の品質も質素であり、カーブと直線の接続なども少々無理がある。おまけにほとんどの橋梁では1車線分の広さしかないので、先に進入した車が優先となり、反対側の車は橋の手前の待避ゾーンで待っていなければならないのである。
そんなウェストコーストの道路を旅するのもはや三度目となり、見覚えのある風景が次々と時速100kmで飛び去って行く。
ホキティカのすぐ南にあるのがロスという町である。ここはかつて、1860~70年代にかけて金鉱で栄えた町であり、通りの端から端まで向かい合わせでびっしりとパブが建ち並んでいたこともあったそうだ。が、現在は「住宅売ります」の看板だけが目立つ寂しい町である。ホストマザーのハーマン夫人のお祖父さんはここロスの生まれだそうで、彼女の話によれば、一攫千金をもくろんで西海岸に殺到した人々も、貧しい装備と厳しい冬の寒さに大変な苦労をしたそうである。
なんとか雨にはならないようだが、はっきりとしない空の下、青いハイラックスがボートを牽引しながらも100km近いスピードで南へと疾走してゆくのであった。
ニュージーランド南島の背骨とも言えるサザン・アルプスには氷河がそれこそ無数といっていいほどたくさんあるのだが、西海岸ではフランツ・ジョセフ氷河とフォックス氷河とが有名である。天候が良ければ、切り立った峡谷から圧倒的な圧力で押し出されつつある青白い氷塊が見えるのだが、いくぶん曇っている今日は若干霞んでいるようだった。
長いドライブの道々、ブリントと四方山話をしてゆく。彼はクライストチャーチの出身であり、17歳の時に単身西海岸にやってきて、鹿撃ちの猟師として長年暮らし、その後は森林公園のレンジャーを初めいろいろな仕事をして生きてきたとのこと。絵は子供の頃から好きだったのだが、特に先生に付いて習ったというわけではないらしい。どうやって絵を習ったのかと訊ねると、自分の額の辺りを指でコンコンとたたいて笑った。
が、彼の家に掛かっているA.A.ディーンという画家の絵を見る限り、その人の絵がブリントの画風にかなりな影響を与えているようであった。三男であるディーン君の名前も、その画家から来ているのか?とも思う。
「俺は一人っ子だったから、親に甘やかされてアマちゃんだったよ」
などと笑う。彼のお父さんはカールさんといって、昨年訪れた際には当日ビデオで撮影した釣りの風景などを一緒に見たり、昔の映画スター「ビング・クロスビー」「クラーク・ゲーブル」などの話をして楽しく過ごしたのだが、この春に亡くなられたとのこと。カールさんと話をすることを楽しみにしてきたのだが、残念であった。ニュージーランドでは、子供が年老いた親と一緒に暮らすことは少ないそうであるが、ブリントは自宅に父親の部屋を用意し、長年共に暮らしてきたのである。
『ゴウ、実は親父がこないだ亡くなったんだよ。 ああ。 まぁ親父も90近くまで生きたんだから十分だったよ。ああ、幸せな人生だったさ』
10月の終わりに電話で話した際の、いつもより大きく、にぎやかに聞こえたブリントの声が思い出された。