戦争を知らない大人たちへ

2021/10/11
グループホーム ブリリアント 機関誌 第81号 より転載・加筆

 僕は昭和37年、1962年の生まれです。終戦から20年あまりが経っていましたが、子どもの頃、母に連れられて飯田線に乗り豊橋まで行くと、駅の地下道に、片腕や片足を失いながらも戦場から生きて帰った復員兵の方たちが、足下に空き缶を置いて立っていたことを覚えています。薄暗い地下道と彼らの白い服とのコントラストが、今でも忘れられません。

 明治36年(1903年)生まれの祖父は、戦前、アメリカの自動車メーカー、フォードが名古屋に設けていた支店「尾張フォード」に勤務していたので、アメリカと日本の国力の圧倒的な差を体感していました。そこで、昭和17年(1942年)に名古屋から、祖父と祖母の故郷である北設楽郡東栄町に一家で疎開したのです。当時はまだ、それほど戦況は悪化しておらず、家財道具を発送するための補助金を役所が出してくれたり、近所の人たちからは、なんであんな田舎に行くの? と不思議がられたそうです。

フォードは1925年に横浜に子会社を設立した。 1925年から1935年まで、日本の自動車市場はアメリカのメーカー(1926/27年以降はフォードと並んでゼネラルモーターズ、1930年以降はクライスラー)が独占していた。 1930年にはフォードとゼネラルモーターズの合計シェアは95%だった。 1936年に既存の外国企業の年間生産量の増加を禁止する法律が制定されたことに加え、さらなる経済的・政治的要因により、フォードは他のアメリカのメーカーと同様に1939年に日本市場から事実上撤退した。 出典:英語版ウィキペディア Ford Motor Company of Japan

 目が悪く、貧相な体格の祖父でしたが、8月になってとうとう召集令状が来ました。東栄町から他の2人の方と、ろくに動いていなかったバスと鉄道を乗り継いで、やっとのことで名古屋の陸軍司令部へ出頭したのが、8月15日の午後遅く。門のところで衛兵から、
「日本は戦争に負けたんだ!」
 とすごい剣幕で怒鳴られて、祖父たち3人はすごすごと引き返して来たそうです。

 父は、昭和6年(1931年)生まれ。小学5年生の時に学校にいると、飛行機の爆音が聞えたので教室の窓から見ていると、低く飛んできた爆撃機の胴体にアメリカ軍の星マークが描かれていました。びっくりした父が担任の先生に
「アメリカの飛行機が来たよ! 先生っ!」
 と大声で呼びかけると、先生は
「そんなバカなことがあるか!」
 と笑ったそうですが、次の瞬間、投下された爆弾が何発も爆発し、父も先生もたいへん衝撃を受けたそうです。

 「ジミー・ドーリットル中佐」が指揮した昭和17年4月18日の、
日本初空襲「ドーリットル空襲」の現場に父は居合わせたのでした。

 その後、一家で疎開した愛知県北設楽郡の山間の町、東栄町には中学校が無かったので、父は新城の農学校へ入り、寄宿舎での学校生活が始まりました。しかし、教室はあらかた兵隊さんの宿舎として使われており、授業は行われず、校庭を掘り返してのサツマイモ作りに毎日毎日かり出されました。生徒たちの監督にあたっていた下士官さんは、
「これは軍事機密だが、サツマイモから飛行機用の燃料を作るのだ。」
 と言ったそうです。

 ところで、現在(2020/07 時点)の政治家や自衛隊の最高幹部の方々の生まれた年を調べてみますと、

 安倍首相:昭和29年(1954年)、

 麻生太郎副総理:昭和15年(1940年)、

 自衛隊最高幹部、山崎幸二統合幕僚長:昭和36年(1961年)、

 ドナルド・トランプ米国大統領:昭和21年(1946年)、
    (アメリカ大統領としては、軍や政府の役職に
     就いた経歴のない初の人物) 

 だそうです。皆さん第二次世界大戦の経験が無いことはもちろんですが、自衛隊の統合幕僚長さんが僕より1歳上でしかないことに驚かされます。

 現在、故田中角栄元首相が再評価され、指導力・実行力のあった田中氏の言葉を集めた本がよく売れているそうです(現在までも脈々と続く自民党の金権政治の元祖としての過去は別として)。

 彼は21歳の時に徴兵され、陸軍二等兵として満州で兵役に就いた経験を持っていました。

田中角栄:モチベーションの上がる名言125選というウェブサイトより、少し引用しますと、

「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが戦争を知らない世代が政治の中枢になった時はとても危ない。」

「官僚には、もとより優秀な人材が多い。こちら(政治家)がうまく理解させられれば、相当の仕事をしてくれる。理解してもらうには、三つの要素がある。まず、こちらのほうに相手(官僚)を説得させるだけの能力があるか否か。次に、仕事の話にこちらの野心、私心というものがないか否か。もう一つは、彼ら(官僚)が納得するまで、徹底的な議論をやる勇気と努力、能力があるか否かだ。これが出来る政治家なら、官僚たちは理解し、ついてきてくれる」

「いいか、演説というのはな、原稿を読むようなものでは駄目だ。・・・・・後略」

「ウソはつくな。すぐばれる。気の利いたことは云うな。後が続かなくなる。そして何より、自分の言葉でしゃべることだ」

 こうした田中角栄氏の言葉を振り返って読んでみますと、今年のコロナウィルスの世界的大流行という危機に対峙して、現在の日本のリーダー、政治体制、行政組織などの危機意識、指導能力、業務遂行能力の無さが、あからさまにあぶり出された気がします。

 また、ミサイル防衛システム:陸上型イージス基地の整備計画の杜撰さには驚かされました。ミサイル基地の用地選定に、実際の測量もせずにインターネットの三次元地図から周辺地形のデータを読み取って、間違った値を算出したなどということは、小学生が算数の宿題に電卓を使って叱られるよりも低レベルの話です。防衛省の担当者は、おそらく一流の大学を出て、難しい試験をパスして職務に就いておられるのでしょうが、果たして国防という重責を担う危機感があるのでしょうか?

 つい先日、結果としてこのミサイル基地の整備計画は中止となりましたが、この事態を受けて、内閣や与党内では、仮想敵国への先制攻撃の議論が始まっています。これは重大な憲法違反です。しかし、日本国憲法という理論だけでは、敵国の攻撃に対して無力である、という意見も、ある面で確かでしょう。しかし、先の戦争における各国への侵略、及ぼした被害を反省し、自国が被った惨禍を痛感して生まれた理想としての憲法には力があると思います。

 アフガニスタンの復興に命を捧げ、銃弾に倒れた中村哲医師は、

「憲法は我々の理想です。理想は守るものじゃない。実行すべきものです。この国は憲法を常にないがしろにしてきた」
と述べています。

 追悼・中村哲氏「アフガンを歩く"日本国憲法"」

また、「この人に聞きたい『中村哲さんに聞いた』」

 という記事では、

 アフガニスタンでの活動について、「向こうに行って、9条がバックボーンとして僕らの活動を支えていてくれる、これが我々を守ってきてくれたんだな、という実感がありますよ。体で感じた想いですよ。武器など絶対に使用しないで、平和を具現化する。それが具体的な形として存在しているのが日本という国の平和憲法、9条ですよ。それを、現地の人たちも分かってくれているんです。だから、政府側も反政府側も、タリバンだって我々には手を出さない。むしろ、守ってくれているんです。9条があるから、海外ではこれまで絶対に銃を撃たなかった日本。それが、ほんとうの日本の強味なんですよ。」と語り、憲法9条の堅持を主張した。

 また佐高信に対しても「アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』というのが迷信だと分かる。敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです」とも語っている。

 と、故中村医師の言葉が記録されています。

 こうした憲法を持つ私たちは、これからの世界の中で、どうやって国を守り、平和を維持してゆけば良いのでしょうか? これまでは、安保条約を結んだアメリカの軍事力の威を借りることでなんとか危機をやり過ごしてきましたが、いざ事が起こった時に、本当にアメリカが日本のためにアメリカ国民の命を賭けてくれるのかは確証が持てません。では、アメリカ抜きで日本を守れるのか? 対米従属一辺倒では将来の平和は守れないでしょうし、かといって、日本単独での国防には莫大な予算が必要となり、さらに他国を圧倒する最新の防衛装備の自国開発は技術的・予算的に考えても不可能でしょう。

 武力に対して武力で応じては、再び先の戦争以上の惨禍を招くでしょう。そこで、危機を回避できる知恵と展望とを持った政治家や外交官による、したたかな外交力が求められます。しかし、歴史を振り返っても、外交や情報収集は日本の不得手とするところです。日米韓、東アジア諸国、オーストラリアなどとの連携が必要なのですが、お隣の韓国とも友好的な関係が築けていません。

 やはり、長期的に見て重要なのは、若者や子どもたちに、いかに先の戦争の悲惨さを教え伝えてゆくか、日本の犯した過ちに真正面から向き合うか、狭い島国独自の考え方に囚われずに、広く多面的なものの考え方をしてゆくかを、教育によって伝え、そして国民全てが常に危機と平和について考えてゆかなければならないと思います。

 ブリリアントでは朝日新聞を購読していますが、毎週「語り継ぐ戦争」という投稿欄があって、戦争体験者の方々の貴重な実体験が載っています。また、豊橋市の地方FM局、FM豊橋「椰子の実」では、パーソナリティーの "よっちゃん" こと渡辺欣生さんと、「豊橋空襲を語りつぐ会」 顧問の安間慎さんのトーク番組「70年の記憶」という番組が長年にわたり毎週放送されています。

 先日読んだ本に、詩人の石垣りんさんが、太平洋戦争末期、1944年のサイパン島における悲劇をテーマに書いた有名な詩「崖」が収録されていました。この詩を30年ぶりくらいに読み返してみて、改めて大きな衝撃と悲しみを受けました。そこで、インターネットの YouTube で「Banzai Cliff Saipan」というキーワードで検索すると、後に「バンザイクリフ」と呼ばれることになった崖で、日本人女性たちが、アメリカ兵の捕虜になるよりも自ら死ぬことを選び、次々と遙か下の海へと身を投げる記録映像を見ることができました。

 この映像はアメリカ軍が撮影したもので、僕もずいぶん昔に見た覚えがあったのですが、やはりショックでした。

 インターネットのおかげで、昔の記録を手軽にスマホなどで視聴し、読んだりすることができるようになりました。世界中の人たちとコミュニケーションをとることもできます。ネット社会の良い点を伸ばし、利用し、広めてゆくことで、より良い世界、平和な世界を築いてゆく責任を痛感しています。

 戦争を知らない大人の1人として。


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