光無き釣り - ブラインドフィッシング

 ジム・バノンが12月のハミルトンアングラーズクラブ(HAC)の例会に現れた晩、彼は奥さんのキャサリンに手伝ってもらいながら入り口のドアを開け、ゆっくり、ゆっくり足を運びながら会場に入ってきた。そして、並んだパイプ椅子の最後列に座った。彼は色の濃い眼鏡をかけ、杖をついていた。

「あれぇ? ジム、どうしたのかな?」

 その時僕は釣具店のロニーと、スプリングクリークでのニンフフィッシングにおけるマーカーの必要性について話をしていたので、ジムに声をかけようかどうしようか迷っているうちに、デニスHAC会長の開会の挨拶が始まってしまった。それで、ジムと話すのは、月例会のプログラムが終わってからにすることにした。

 その日のゲストはロトルアの剥製師、レイ・ポート氏だった。ポート氏の話は傑作揃いで、その夜の会場は大いに盛り上がった。中でも、釣り上げた大物レインボートラウトをオーブンに入れて、調理を始めてしまってから剥製にすることを思いつき、焦げ目の付いた鱒を取り出してポート氏の作業場に持ち込んだ、ある婦人の話には会場のみんなが腹を抱えて笑った。

 プログラムが全て終わり、みんなで会場の片づけをしてから会場を出たあと、僕は駐車場近くに立っていたジムとキャサリンに声をかけた。

「ジム、ゴウだよ。どうかしたのかい? 杖なんかついて」

「ああ、ゴウか! 久しぶりだなぁ。なに、この左目は大したことはない。孫の花火が飛び込んだのさ」

 詳しく話を聞くと、11月5日、ニュージーランドの子供たちの最大の祭りのひとつであるガイ・フォークス・デイの夜、庭先で花火を楽しんでいたジムのお孫さんが放った打ち上げ花火が、誤ってジムの顔と左目に当たってしまったとのことであった。ジムはそれまで白内障を患っていて、右目はほとんど視力を無くしていたのだが、これで両目が見えなくなってしまったのである。

「これで映画の途中の長くてくだらないテレビコマーシャルを見なくても良くなったからせいせいしたよ」

「でも、もう釣りに行けないじゃないか」

「なぁに、友達とボートでワイカト川のダム湖に繰り出して、ハーリングでミセス・シンプソンをゆっくり引っ張れば、まだまだ現役だぜ」

「ああ、その手があったね」

「この人はねぇ、棺の中でもロッドを手放さないわよ」

 キャサリンも明るく冗談を飛ばす。

「だけど、湖の魚は元気が無くてつまらないな。川でもう一度釣りがしたいよ。もう一度だけ、ドライフライのライズを釣りたいなぁ」

「ああ。また川へ行こうよ。ジム、僕がいい場所を見つけてくるよ」

 その晩、家に帰ってから、使い古した一枚の地図を机の上に広げた。ワイカト地方の20万分の1地形図である。これまで釣り歩いた各地の川の区間はすべてピンクの蛍光マーカーで印をしてある。数あるこの印の中から、両目の見えなくなったジム、66歳で足腰も少し弱くなってきたジムを案内して釣ることができる川を探し出すのだ。

○車から降りて川原までのアクセスが楽で、近い川

○入渓点から鱒の居場所までが近い川

○安全に釣りながら遡行できる川

○いつも鱒が居着いている場所が分かりやすい川

○それなりの型の鱒が居る川

○ドライフライでライズを釣れる川

 それから2時間、このようないろいろな条件を考えた後、僕はある川の一つのポイントを選び出した。ここなら大丈夫だろう。

 次の日、ジムに電話して、いつなら釣りに行けるのかを尋ねた。ジムの都合と一緒に、奥さんのキャサリンのスケジュールも訊いておかなければならない。3人でいろいろと相談した結果、クリスマスホリデーが始まってあちこちの川が釣り人であふれる前、12月15日の日曜日に出かけることにした。

 さて、その日曜日である。近所のスーパーマーケット「パックンセーブ」の駐車場でキャサリンの運転する赤いトヨタカローラを待つ。待ち合わせの7時きっかりにカローラが僕の古いシルバーのパルサーの横に滑り込んできた。

「おはようジム! おはようキャサリン!」

「やぁゴウ! 今日は本当にありがとう。世話になるよ」

「しっかりと三人分、お弁当とお茶を用意したからね」

 それでは!と、ジムとキャサリンの荷物をパルサーに移し替え、3人は勇んで車に乗り込み、ステートハイウェイ3号線を南へと走り出した。車中では、ジムの釣りの自慢話やキャサリンの趣味であるバードウォッチング、僕の大学でのホワイトベイトの研究などについて話しながら楽しくドライブした。1時間ほど走ったあとで、オトロハンガのスケートボードパークの角を左に折れて農道へ入り、しばらく走ると道路は未舗装の砂利道となった。軽い振動が心地よい。巻き上がった砂埃を貫いて、紫外線の強いニュージーランドの初夏の日差しがもう肌を刺し始めている。3号線から分かれて10kmほど走ると、ウェインさんの牧場に着いた。ここが今日の入渓地点なのである。

 ウェインさんの家には人影が見えなかったので、挨拶はせず、いつも彼に言われているように、ミルク絞り小屋の奥まで車を乗り入れ、搾ったミルクを毎日運びに来る大型のトレーラーのじゃまにならない所へパルサーを停めた。他に車は無いので先行者はいないらしい。よしよし。

「さあ! 始まり始まり!」

 僕は期待にあふれてジムに声をかける。

「ああ! フライはこれまで巻いたやつをしっかり持って来たよ」

 暗色のめがねの奥で、光を感じることのできなくなったジムの両目が輝いたように思えた。

 車から降りた3人はいそいそと身支度を始める。12月も20日になるともう十分暖かいので、ウェーダーは履かず、3人ともタイツにショートパンツというキウィ・スタイルである。僕は使い古してフェルト底の減ってきたウェーディングシューズを、ジムとキャサリンは登山用のブーツを履いた。キウィ(ニュージーランド人)の釣り人はブーツを愛用する人がけっこういるのである。

 車を停めた場所から20歩も進むと、牛を通らせないために電流の通っているワイヤーが張ってあるので、電気ショックに注意しながら大きく跨いで越える。キャサリンに腕をとってもらったジムもゆっくりついてくる。そして緩やかな土手の斜面の草むらを降りるともう瀬尻の流れに立ち込めるのである。そこで3人は肩を組み、3人4脚のような格好でゆっくりとウェーディングを始める。ここから50メートルほど上流にある、長細い淵の左岸に密生した柳があり、年間を通じて、必ず1尾は柳の枝の際に型の良いブラウンが居着いているのだ。今日の僕の作戦は、いったん右岸側に渡り、砂利の岸辺にキャサリンを残し、ジムと二人でウェーディングしながら斜め上流へと進み、くだんの柳の方に忍び寄って行く、というものである。

 右岸に着いたので、僕はベストの背中のポケットからニコンの8倍防水双眼鏡を取り出してキャサリンに渡した。

「もし退屈だったら、これで鳥でも探していてよ」

「ああそうね。ありがとう、ゴウ。でも私も鱒のライズを見てみたいわ」

 そう言うとキャサリンは、慣れた手つきで双眼鏡の視度調整を始めた。今度はジムの番である。ジムは愛用のKILLWELL社製 イノベーション9064 のロッドをケースから取り出した。

「ゴウ、ロッドにリールをセットして、ラインをガイドに通すくらいなら時間さえかければ今の俺にだって十分できるぜ」

 ジムは笑いながら、僕が渡してあげたロッドケースのファスナーをゆっくりと開け、竿袋からティップとセカンドセクションとを取り出し、シングルフットのガイドの向きを慎重に合わせながらロッドを継いだ。続くサードとバットセクションも難なくつないで、僕が渡したイノベーションLAをリールシートに固定し、ラインをガイドすべてに通し終えた。さすがは長年の経験である。

 リーダーは僕のベストから新品の3X-12ftを取り出して、ジムのラインに付けてあげた。そして3Xのティペットを80センチ継ぎ足した。問題はフライである。

「ジム、何でいこうか?」

「そうだなぁ、ライズはあるかい?」

「いや、今のところ見えないね」

「何か虫は飛んでいるかい?」

「うーん、見えないねぇ」

「じゃぁ、安全牌のカカヒクィーンにしよう。でも、フックのアイにティペットを通すのだけは勘弁してくれよ」

 つい2ヶ月前までジムが丹念に巻いていたフライが、整然とボックスに並べられている。彼のタイイングの腕に驚嘆しながら、14番のカカヒクィーンを選び出し、慎重に、結び目を唾で濡らしてからティペットを結んだ。

「じゃぁジム、ちょっとキャスティングの練習をしようか?」

 僕はジムの腕をとって流れの中に数歩立ち込み、彼にリールからラインを一回たぐり出してもらった。

「ちょっと待ってよジム、今ジムの1ストロークを測るから」

 ジムが一回あたりにたぐり出すラインの長さは、私の手のひらを基準にして測って、約80cmだった。これを覚えておくことで、目標までの距離と、それに必要なラインを正確に引き出すことができるのだ。

 まだライズは見られないが、きっと居るであろうブラウンを驚かさないよう、十分離れた場所で、フォルスキャストとプレゼンテーションを5、6回行った。視力がほとんど無くなってしまったにもかかわらず、ジムのキャスティング能力はいささかも衰えがみられなかった。あとはガイドの腕次第である。

「それじゃあ、行こうか? ジム」

「あ! ゴウ、ちょっと待ってくれ。眼鏡を偏光サングラスに替えたいんだ」

「ああ、いいよ」

 ジムのこだわりであり、験担ぎである。彼はベストの胸裏ポケットから偏光サングラスを取り出して、暗い色の眼鏡と交換した。一瞬、痛々しい左目のやけどの痕が垣間見えた。

「これでよく見える」

 ジムが笑った。

 いよいよ左岸上流の柳を目指して、ジムと僕の肩を組んでのストーキングが始まった。足音の振動は二人分なので、いつもよりさらに慎重なアプローチが求められる。また、ジムがよろけたり転んだりしたら、派手な水音が立って、臆病なブラウンは柳の下のえぐれへと姿をくらましてしまうだろう。ジムと肩を組み、一歩、また一歩、極めて静かに川底の砂利を踏みしめながら上流へと近づく。強い日差しの下、冷たい流れが心地良い。風もほとんど無く、絶好のコンディションである。

 太ももの深さまでウェーディングして近づいたところでいったん停止し、ライズを見極めることにした。はるか上流から続く早瀬が淵に流れ込み、ゆったりと流れる主流が柳の根元を洗っている位置で、この時期、いつもならきっとライズが見られるのだ。5分が過ぎ、10分が過ぎ、20分が過ぎた時、柳の枝先の連なりが一カ所だけ低くなっている場所の左側50センチで、秘めやかな波紋が広がった。

「ジム、ライズだ。鱒は居るよ」

 ジムの耳元にささやく。距離は約20メートル。まだちょっと遠い。再び、静かに、静かに、前進を開始する。一歩、また一歩。10メートル程まで近づいたところで足を止め、ここから狙うことにした。付近に虫は飛んでおらず、あの鱒が何を喰っているのかは見極められないが、僕の経験上、ここの鱒なら文句なくカカヒクィーンをくわえるだろう。

 この川の水は少し茶色の濁りがあるので、鱒の姿そのものはスポッティングできていない。だが、いきなりライズを狙ってキャストをするのはリスクが大きいので、まずは距離を合わせるために、ライズの3メートル左を狙ってキャストしてもらう。ジムがフォルスキャストをしている間に出ているラインの長さを目測して指示し、キャストの方向はジムの後ろから両肩を左右にそっと回して調整する。

「ジム、いいよ。プレゼンテーションしてみて」

「よし!」

 ジムの暗緑色のフライラインが綺麗に伸びて、カカヒクィーンが静かに水面に浮かぶ。距離が1メートルほど足りない。光線のかげんで少しフライが見難いので、視認性の良いロイヤルウルフあたりに替えたいところだが、ジムの長年の経験を信じることにする。またライズの波紋が広がった。

「ジム、ラインを一たぐりと20センチだけ、出してみて」

 ジムが言われた分のラインをたぐり出す。これで距離はいいはずだ。

「もう一度、今の方向へキャストして」

 再び、3回のフォルスキャストが始まり、フィニッシュへ。距離はちょうどいい。

「よしジム、いよいよ本番だよ。ドラグの調整はいいよね」

「ああ、大丈夫だ」

 ジムの後ろに回り、肩越しにライズの位置を見極め、さっきの練習より3メートル右にフライが落ちるようにジムの体をほんの少しだけ右に回して支える。

「いいよ、ジム」

「よし」

 ささやきのあとでフォルスキャストが始まる。数回のフォルスキャストの間に方向を微調整する。そしてプレゼンテーション。熟達のフライフィッシャーマンが投射したカカヒクィーンが柳の枝の左にフワリと落ちる。キャストは完璧。水面に浮かんで流れ出したフライが低い柳の枝を通過したその時、焦げ茶色の鼻先が水面を割ってフライを物憂げにくわえた。ワン、ツ と数え始めた瞬間、

「ジム! 鱒だわ!」

 対岸からキャサリンが大声で叫んだ。

 ジムが反射的に合わせを入れてしまう。

『しまった!』

 合わせのタイミングが若干早すぎて、大物ブラウンの口からフライがすっぽ抜けてしまったのだ。力なく弛んだフライラインが僕たちの足下に落ちる。キャサリンはいつの間にか下流から僕たちの立ち込んでいる場所の対岸まで遡行してきて、双眼鏡でライズをずっと見続けていたらしい。フライをくわえた鱒の姿に興奮して大声で夫に向かって叫んでしまったのだ。

『うーん......今のは惜しかったなぁ。3つ数える前だったからなぁ』

「ゴウ、フッキングしなかったのかい?」

「ああジム、でも大丈夫さ。フッキングはしなかったから、奴を驚かしてはいないよ。時間をおけばまた出てきてライズを始めるさ」

 そこで僕たち二人は、そのままの位置で流れに立ち込み続け、再び鱒のライズが起こるのをひたすら待った。僕は対岸のキャサリンに、大きなジェスチャーで、鱒が出ても静かにしているように頼んだ。キャサリンも無言で大きくうなずいてくれた。

 30分が経った。ライズはない。

『くっそー。フックが奴さんの顎に触ってしまったかな』

 いくら12月の南ワイカトとは言え、鱒の棲む流れに1時間ほども太ももまで浸かっていると、じんじんと股の中心あたりが冷えてくる。思わずブルッと震えが走る。

「ジム、寒くないかい?」

「ああ、大丈夫さ。それよりまだライズはないかい?」

「うーん、まだ現れないねぇ」

 合わせ損ねから45分が経過した。すると、先ほど釣り損ねたライズのやや上流で、再びライズが見えた。距離にして2メートル半。さっきの奴か、あるいは新顔か?

「ジム、ライズが見えたよ。少し上流へ動こう」

 2人は静かに静かに4本の足を運び、2メートル半上流へといざり上がった。

「さっきの鱒かな?」

「いや、何とも言えないねぇ」

 ささやきの会話のあと、満を持して新しいライズを狙うことにした。

「ジム、ちょっとフライを確認するよ」

 フライをたぐり寄せて結び目をチェックすると、傷はなかった。これなら大丈夫。思い切ってドロッパー仕掛けにして、少しだけウェイトを巻き込んだフェザントテールを結んでみようかとも思ったが、ジムのドライフライに賭ける思いを汲んで、それはやめておいた。

 新しく現れたライズは、最初のライズのほぼ延長線上にある。距離、方向ともにさっきと同じでいいはずだ。

「ジム、キャストしていいよ」

 ジムが慎重にフォルスキャストを始める。2回、3回、4回、そしてプレゼンテーション。最初のキャストは少し右に逸れて、危うく柳の枝を釣るところだった。

「ほんの少しだけ左、30センチ左を狙って」

「よし」

 やや濁った水面に、茶色のドライフライが浮かび、ライズのあった地点を通過する。何も起こらない。

「ジム、キャストは完璧だよ。もう一度トライだ」

 再びのキャスト。柳の枝の脇を流れるフライに、浮かび出た鱒の鼻先が覆い被さった。

『1、2、3 ストライク!』

ジムはしっかりとロッドティップを上げ、十分にラインを引いた。ロッドが大きくしなり、鱒とのファイトが始まった。

「ジム!ロッドを左に倒して鱒を柳の奥に逃げ込まれないようにするんだ!」

「よし!」

 最初の逸走をこらえ、柳の根元から魚体を引き出すと、鱒は一瞬上流へ向かって突進してからすぐに反転し、下流目指して一直線に下ってきた。

「ジム、ラインをたぐって! 鱒がこちらに向かってくる!」

 緑色のラインの先端が僕たちと灌木の間を突っ切って下流の早瀬に向かう。ジムがラインを懸命にたぐっているが、それより早く鱒は早瀬の中に泳ぎ込み、ジムの手からラインを引き出してドラグを鳴らし始めた。この長い淵の瀬尻で取り込めなければ、鱒に引かれるまま、もう一つ下の淵までおよそ200メートル下がる必要がある。1人では身動きできないジムをここに立たせておいて、僕だけ下流へ走って鱒をランディングすることも一瞬考えたが、鱒の動きが見えないジムにとって、ランディングの呼吸をはかることは困難なことである。しかたがないのでジムの腰を支えながら、ゆっくりとではあるが、鱒の後を追うことにした。

「ジム! がんばってー!」

 対岸でキャサリンが叫んでいる。鱒は瀬尻を越えて急流へと入ってしまった。ラインは出されるままであり、もうすぐバッキングが見えそうである。瀬尻の流れは右へと蛇行しているので、このまままっすぐに下っていけば、次の淵の淀み側に着ける。速い流れの中、ジムは落ち着いてロッドを高く掲げてやりとりしながら余分なラインを巻き取り始めた。ジムが転ばないこと、フックが外れないことだけを願う。

 ようやく僕たちが下の淵の流れ込みに着いたとき、鱒はフックから逃れようと、淵の深みでしきりと抗って体を反転させていた。もうそれほど体力は残っていないだろうが、最後の反撃には十分用心しなければならない。ジムを足場の良い砂地に立たせてから、いよいよネットをリトリーバーから外してランディングの体勢に入る。ジムは、鱒が左に走れば右にロッドを倒し、あるいはその逆をしながら見事な手際の良さで魚をあしらっている。とても目が見えない釣り人とは思えない。

「ジム、そろそろ鱒も弱ったようだ。左に寄せてくれるかい?」

 なだらかな砂地の水辺近くに良い型のブラウンが寄せられてきた。上顎にしっかりとカカヒクィーンが刺さっている。体側の朱点が美しい。鱒の頭から思い切ってネットですくう。ネットのフレームからしっぽがはみ出したがなんとか収まった。

「ジム! 釣り上げたよ!」

「おお! やったか!」

 重いネットを持ったまま、ジムを岸辺まで誘導する。鱒がぐねぐねとネットの中で暴れる。ジムは砂利の上に座り込んで、

「ゴウ、鱒を見せてくれるか?」

と言った。僕がネットを抱えてジムの足下の水たまりに浸けると、彼は手を水でゆっくりと濡らした後でブラウントラウトの頭から顎、胸びれ、背びれ、アブラびれ、尾びれと順々に手触りを確かめてから言った。

「きれいな鱒だ。尾びれが大きいぜ。それに、この顎ならオスだな」

 キャサリンが上流から追いついてきてジムに声をかける。

「あなた、やったわね。とうとう釣り上げたわね!」

「ああ、俺もまだまだ現役だぜ」

「ジム、このブラウンをどうする? ポートさんに頼んで剥製にしてもらうかい?」

 ジムは、しばらく鱒の体を撫でてから、カカヒクィーンを顎から外し、名残惜しそうに魚をネットから出してやった。鱒は、大きく鰓で呼吸しながら少し休んだ後で、一目散に深みへと走り去った。

「美しい鱒だった」

ジムはもう一度繰り返した。


エッセイ   目次へ

サイトマップ

ホームへ

お問い合わせ

↑ TOP