エッセイ
ハヤの尾頭つき、十4尾
昼から五時間もかがみっぱなしで田んぼの草を取っていたので腰がメキメキと痛む。ギラギラと照りつけていたお日様がだいぶ傾いたのと、目と鼻の先から聞こえてくる大千瀬川のせせらぎに、いてもたってもいられなくなった息子たちが草取りに集中できなくなったのを見て、今日の仕事の打ち切りを告げる。
「うっわぁぁぁ~いっ!」
会社を辞めて田舎に引っ込んだここ四年というもの、芋を洗うような粗雑な育ち方をしてきた十五歳の渉、十歳の進、七歳の登が、膝まで浸かった泥を気にもせずに田んぼから抜け出し、裸足のまんまでセキレイ橋へと駆けてゆく。
田んぼの脇の側溝で足を洗い、麦茶の入っていた魔法瓶と茶碗を大事にリュックに入れ、子供たちの後を追う。橋の上から見ると、長男の渉がチビの登を連れて瀬の中に立ち、粗末な竹竿でハヤ用の毛針の振り方を教えている。次男の進は、もう一人で釣れるようになったので、崖下の淵の上流に広がる瀬を流している。
登に一通り教えた渉は、岸辺にしりぞき、家から大事に持ってきた竹の六角竿を継いでいる。一昨年亡くなった、ポートランドの大叔父の形見なのである。するするとラインを竿に通し、ハヤ用の小さな毛針を結んでいる渉は、三つ以上の毛針を使うことを断固として拒み続けている。あいつに言わせると、
「たくさんの毛針を使って流すのは、ハヤ釣りであって、フライ・フィッシングではない」
という理屈になるのだ。
橋のすぐ下の瀬を釣っている登の竿がしなる。昔のように束で釣れるというわけにはいかないけれど、ぼちぼち、ハヤが釣れるのだ。上流に見え隠れしている進は、もう三、4尾は釣っただろうか?
橋の上はまだ暑い。岸辺に降りて橋の下の日陰に入ってウナギ釣りの支度を始めようかとリュックを持つと、切り通しの向こうから真新しい赤い輝きが一台近づいてくるのが目に入った。その車は、音も無く私の前で止まり、窓からよく知っている顔がひょいっと出た。
「松本君。お久しぶりィ!」
「いやぁ、須崎部長。ごぶさたしてます。お元気そうで」
会社を辞めてもう四年になるのだが、在社中いろいろお世話になった須崎総務部長は、田舎に引っ込んだ私のところをそれからもちょくちょく訪ねてくれているのである。
「草取りが済んで、これからが本番だね!」
「いやぁ、例によって例の通り、親に似ぬ子は鬼子とやらで.....」
「ま、いいさ。文字通り趣味と実益を兼ねているんだし。いやね、家まで上がっていったら真美子さんから田んぼだって聞いたんで、迎えに来たんだよ」
さすがの部長も、真美子と一緒に家で私を待っているのはばつが悪いと見えて、田んぼまで出向いてきたというわけか。
「いやぁ、それはそれは。助かります。歩くと三十分はかかりますからね。でも、いいんですか? こんな新車に野良仕事帰りの腕白が三人も乗っちゃって?」
「遠慮すんなよ、水くさい」
部長の方こそ、少しは遠慮して下さいなどと、真美子なら言いかねないな、と苦笑して、川原に散開したガキどもを呼び集めることにする。
「おーい! そろそろ家に帰るぞー!」
「いーやぁーだぁー」
「須崎のおじさんがぁー、新しいオデッセイに乗せてくれるぞぉー!」
「いーまぁーいーくー!」
「足をきれいに洗ってこいよぉー!」
十五歳にはとても見えない優雅なキャストを繰り返していた渉が一番最後まで粘っていたが、とうとう竿をたたんで弟たちと橋まで上がってきた。
「何尾釣った?」
「オレ、5尾」
「僕、7尾」
「ボク、2尾」
兄貴たちの二つの魚籠からハヤが登の魚籠に移され、渉が登に質問する。
「のぼる、釣ったハヤ全部を三倍したら何尾になる?」
「四十2尾!」
「おお! 登君はできるなぁ! うちの理恵が一年生の時なんか、算数まったくだめだったんだぞ」
「やったぁ、今日も渉あんちゃんに勝ったぁ!」
「うるさいっ! 毛針を十本も結べば誰でもたくさん釣れるんだ!」
「じゃぁ自分もやればいいじゃん!」
「オレは雑魚釣りはしない」
「いぇーい! 負け惜しみィ」
「さあさあ、早く車に乗せてもらえ!」
「父さん、オレもう少し釣ってから帰る」
「お、そうか。暗くなるまでには帰って来いよ」
このオデッセイが何代目になるのかは知らないが、腕白どもを後部座席にするりと飲み込み、音もなく向きを変え、山一つ越えた我が家へと向かう。
「須崎のおじさん、この車、電気で走ってるの?」
「ああそうだよ。水を分解して電気にして走るんだ」
「それってスイソのこと?」
「ああ、そうだと思うよ。おじさんも詳しいところは知らないけど」
昔、父の乗っていたアコードが四苦八苦して登っていた急な坂道を、新車の匂いをふりまきながら、無音のオデッセイがすいすいと登ってゆく。
「これはまだ国内生産ですか?」
「ああ、シビックあたりは中国生産に移って久しいけど、これはまだ国内で作っているらしい」
家に着くと、夕食の支度をしていた真美子が台所から出てきた。
「まぁ部長さん、わざわざすみませんでした。こんな新車に乗せていただいて」
「いやぁ、とんでもない。いつもお世話になりっぱなしで」
低い腰ながら、すかさず本題をほのめかす須崎部長の話術は健在であった。
「今日はお魚焼くの? それとも煮付け?」
「今日は塩焼き。 気分的に塩焼き!」
「うわぁーい! シオヤキシオヤキ!」
奥の方から父と母、大垣の伯父が出てきた。伯父は去年の暮れから、言うなれば疎開のようなかたちでこの家に住んでいるのである。
「お、須崎部長さん、お久しぶりです。いつも輝がお世話になっておりまして」
父も母も、相変わらず部長には丁寧に挨拶をしている。『在社中にあれだけお世話になったのだからな』というのが二人の口癖なのだ。ま、それももっともな話ではあるが。
「いやぁお父さん、お母さん、お久しぶりです。こちらに来ると、暑い下界が別世界ですね。あ、これは、今回の新製品なんですが。ぜひ使ってやってください」
「まぁまぁいつもいつも、気を使っていただいて。ありがとうございます」
「部長さん、帰りがあるからあれですけど、ちょっとだけいかがですか?」
「いやぁ、かたじけない。というか、待ってました!」
相変わらず憎めない人だと思いつつ、部長、父、伯父、私の四人で夕涼みのビールとなる。前畑で採れた枝豆が、今年は色も良い。
「今日は釣れたか?」
「うん、ぼちぼち。全部で十4尾。ハヤも年々少なくなってるね」
「九人家族で一人2尾が揃わないか」
「わしゃ入れ歯にはさまるからハヤは遠慮するよ」
「いやぁ、すでにアマゴは消え、ハヤもいよいよですかなぁ」
「一昨年あたりから、養殖の虹鱒にもひどい伝染病が流行りましたしねぇ」
「あれは、農水省の方でも、原因をつかみかねているそうじゃないですか?」
「稚魚から成魚から、パタパタッと死んじゃうみたいですよ。鯉の方にも移るとか」
「このあたりの養魚場も、ようやく軌道に乗ったとおもったところにあれですからねぇ」
「どのみち養殖も、飼料の原材料がアメリカから入らないのだから無理でしょう」
「昔は日本も七つの海に船団を繰り出して、ありとあらゆる魚介類を捕ってきたもんですけどねぇ」
「石油はなんとか入ってきてても、プラスチックや電気を喰うわけにはいきませんからなぁ」
「部長さんとこらあたりじゃぁ、バスはまだいますか?」
「いやぁ、ここ五、六年というもの、てんで聞きませんなぁ」
「隣町のダムには、三年ぐらい前までいたような話を聞きましたけどねぇ」
「ちょっと前までは、ギルは骨っぽいなんて言ってましたけど、今はギルさえいませんからねぇ」
「寿司屋でバスが 時価 なんですから、恐れ入りますわ。昔のことを言うと笑われますけど」
「あ。寿司屋って言えば、面白い話がありましてね」
須崎部長の語るところによれば、部長の行きつけの寿司屋が大須にあり、そこの大将の甥っ子がやはり東京は神田の寿司屋に勤めていたのだが、これが大のバス釣りファン。で、さっきの話ではないのだが、趣味と実益を兼ねて北海道の知床のはずれにある某沼まで遠征に行き、その沼で、もはや日本でもそのあたりにしか生息していないのではと言われるスモールマウスバスを狙い、けっこうな型揃いを上げ、勤め先の寿司屋に冷凍で送りつけ、これまたけっこうな稼ぎを上げたそうである。
「いやぁ、知床のスモールマウスの照り焼きかぁ。羨ましいねぇ」
「私なんかも、子供の頃からバス釣ってますが、第二次食糧危機以降のバスの減り方といったらそれは凄かったですね」
「なんと言っても、2026年のアメリカの農業政策の転換が響きましたな」
「国際漁場調整会議での日本の遠洋漁業叩きも痛かった」
「バスも皮剥けばけっこう食えるってことみんなが知ってからは減るのが早かったな」
「ドバミミズが最高に効いたようですな」
「人口が密集している大都会から一番近い水域にいたのが肉付きのいいバスだったからなぁ」
「最初は世間の人も環境ホルモンや重金属の蓄積がどうのこうのなんて言ってたんだけどねぇ」
「空きっ腹のところにあのムニエルや塩焼きを出されたらみんな黙るさ」
「昔はバスの駆除をえらいお金かけてやったもんだけどなぁ」
「なんだかんだ言って、人間の食欲が一番怖いってことですかねぇ」
「須崎のおじさん、これ何?」
前の畑に生っているトマトをもいで食べていた進と登が、部長の持ってきた箱をめざとく見つけだした。
「お、これはこれは。大事なものを忘れていた。いまからセットしてあげよう」
部長は小さな段ボール箱から小さな手帳型の機器を取り出し、裏面からバッテリーを入れた。本体横のスイッチを入れて、なにやらセットしている。
「ほーらこれが、SONYの最新型PhonePadだよ。これで世界中へ電話がかけられるし、どこにいてもネットにつながる。自分のいる位置はスクリーン上の地図に表示され、おまけに家の中の電化製品は外からほとんどコントロールできるんだ。それとね、おじさんの車の走行データやメンテナンス記録も無線でダウンロードできるんだよ」
「へぇー。すっごーい!」
新しいビールを出して台所に引っ込む真美子が、須崎部長の持ってきた品をチラッと見て、盆の下で指を一本出してみせる。
「さてさて。すっかりごちそうになりました。もう一杯欲しくなる前に出かけるとします」
「あ、部長。ちょっと待ってて下さい」
ビールを慌てて飲み干してから家に入り、土間にある室(むろ)に降りて、スーパーの袋にサツマイモを詰める。真美子の指示では一袋なのだが、部長の家で彼の帰りを待ちわびている奥さんや、娘の佐知子と仲良くしてもらった理恵ちゃんのことを思い、せめて袋のぎりぎりまで詰める。
イモの詰まった袋の口を苦労して縛り、土間にさげ出す。さらにもう一さげして、部長の新車の後部へと積み込む。工業国日本を代表する最新鋭の手帳型電話コンピューターが、たった一袋のサツマイモに替えられ、これまた最新鋭の電池自動車に乗せられて大都会のサラリーマンの家庭へと運ばれるのである。
「それじゃぁ、本当にありがとうございました。ここのお芋は本当に美味しくて」
「こちらこそありがとうございました。また来て下さいね」
「部長、渉を迎えに行くのでまた国道まで乗っけてってくれますか?」
「ああ、いいよいいよ」
無段変速のスムーズな加速が、電化製品製造会社の総務部長と、元社員を乗せて走り出す。
「いやぁ、君も田舎に戻って正解だったよ。いくらたくさん給料もらったって、畑と田んぼがあって食い物がとれるのには勝てんからなぁ。もっとも、オレなんかそんなにもらってないけどさ」
「ええ、それもこれも祖父のおかげです」
もう十年も前に他界した祖父は、亡くなる直前に、実家の近所で荒れ果てていた田んぼ数枚を購入していたのである。遺書には、
『いつかまたこの国に、食糧難の時代が必ず来る。絶対にこの田圃と家の回りの畑を売ってはならぬ』
と、しっかりとした字で書かれていたらしい。葬儀の際には、親戚じゅうで
「おじいちゃんも馬鹿なことをしてから死んだもんだ」
と笑ったものだったが。
祖父の死から三年後、あの遺言は現実となり、日本中が食糧難のどん底に突き落とされた。四年前から、脱サラではなく、喰うための必然的な手段として田舎に戻り、見よう見まねで田んぼと畑を耕作し、家の回りには果樹を植え、冬のワナ漁で獣を捕り夏にはウナギを釣り、妻と子供四人、父と母、去年からは大垣の伯父も加え、九人家族がまがりなりにも食べていけるのは、ひとえに、祖父の先見の明があったからなのである。
部長に国道の切り通しで降ろしてもらい、セキレイ橋に向かって歩きながら自分の田んぼを眺める。草取りを終え、まだ背丈は低いが美しく並んだ緑の稲を見つめていると、秋の収穫の、あの頼もしい稲穂の重さが思い出された。
あたりには、夏の夕闇が近づいている。橋から見下ろすと、崖下の淵の流れ込みで渉が振る白いフライラインが、幻のようにゆききしている。喰うためのハヤ釣りを拒み、小さなドライフライを一つだけ結び、想い出のアメノウオを狙っている。
たった一人で、暗くなるまで、絶えて久しいアメノウオを狙っている。