父の釣り口伝
アメノウオ一代 その2 北設楽郡の谷から谷を
それから戦争だすべっただって言ってアメ釣りやれんでおって、それから俺が東栄町でアメ釣りっちゅうことを思い出したのがだいぶ歳をくってからだわいなぁ、十八か十九歳の時だよ。
その時分にゃあまぁなんしょとにかく戦争だもんだいそのぉ食うに追われておるわけだはっきり言って。貧しいことも貧しいだが何も無いんだもんで。そいだもんでまあとにかく俺とおばあちゃんと進らをこきつかって夏はサツマイモつくる冬は麦をつくる。俺も慣れん百姓で岡森のおじいさん(みなの義理の兄、肇たちと同じ上柿野に住んでいた)の腰巾着で百姓覚えてやっとって。
そうしたらよう尾呂へ用があって行ったらなあ、尾呂の鈴川君とこへ行ったらそこにのりおっていう勝たちと同級生の子があって、俺と同級生の努っちゅうのがその兄で、まあ尾呂の小僧ン達が尾呂沢へ水浴びに行くっちゅうわけだ。
そうして魚捕ってきたっちゅって盥へ入れて見てけつかって、俺が覗いてみたらアメノウオじゃねえか。手のひらぐらいの。それでみんなはなぁ、漁業組合で入れたで柿野川にアメノウオがおるとしか思ってない。ここの人ンとう(人たちは)知りゃあへん。
「どこで捕ってきた?」
「尾呂沢で突いてきた」
ほいでメラメラと俺が燃えたわけだよ。(笑)
ようしきた!ってなもんで。(笑)
おら誰にも言やあせん、だまーって柿野川から尾呂沢まで釣ったよ。ここらの人知らなんだぜ。ここらへんの人に聞いてみ、漁業組合で入れたでアメおるっちゅう。そうじゃないそれ以前からおったんだ。戦後すぐにおっただもんで。
まあそうやってここで釣っとってよう、その時分には足は無ェしさあ、それでもたまーに古戸の方へ行っちゃあ釣っておった。自転車でおばあンとこ用足しに行っちゃあちょいちょい釣っとったよ。
それから本格的に釣りだしたのは岡森のおじさんが金あるもんだいオートバイ買い込んで使っとった。そのうちに新しいの買って中古を俺にくれるっちゅうわけだ。それからだわ。
一番最初行ったのはなぁ、足込。それはなぜ行ったかっちゅうとなあ、設楽にあの、ほれ、覚えがあるゥ? 今は誰もおらんだが、あのゥ小学校上がっていく所の角の家、文房具やらお菓子やら売っとったら。○○さんちゅう家。あそこの○○さんが、農協の用事で足込の農協へ行ったっちゅうわけだ。あの人はまあメチャクチャこれだもんで(酒が好きで)、足込で一杯よばれてきたっちゅうわけでよう。それで親父に怒られたわけだ。お金を持ちに行ったもんで。 「飲んでくるとは何事だ!」
って言ったら、
「まあ伊藤さんそんなこと言わずと...勘弁してくれ。」
っていう話で、魚がうまかったでつい飲み過ぎたと、こういうわけだ。
「何食っただ?」
「アメの塩焼きをよばれた。」
とこう言ったっちゅって親父が笑ってよう、
「○○の小僧は銭持って酒くらって自転車でフラフラしやがってあぶなくてしょうねぇ」
ってこう言うわけだ。
「ほいでなぁ魚がうまくて飲んできたなんとこきゃぁがって」
って言うもんで
「魚ってそんないいものあっただかい」
て聞いたら、あの時分まんだ貧しい時代だもんで、
「何だ知らんがなぁ、農協の野郎ンとう、背戸の川で釣ってきたとこいてアメノウオの塩焼きをたんとよばれたげなよ」
とこう言ったもんで、
『よし!おるわけだ!』
ってなもんで、もうイカンわなぁ、近いだもんで。(笑)
朝暗いうちに起きては釣りに行って帰ってきてから百姓やる。 --東栄中学校の裏の近所から上がってくだかん?
おう、あのへんから上がってくだい。そんなもんずうーっと奥まで行かんくたて腰篭一杯にするにはわけなかったで。それからがぜん釣りだした。そこで俺の方がアタマ激しいもんで足込の川におるもんなら園目の川にだっておるはずだとこう推理していくわけだよ。(笑)
そうしたら西園目も東園目もおるっちゅうわけで。まずこのへんを釣っとっただい。だんだん足が生えてオートバイあるだもんで、神田のほうへ行ってみましょうとおもったらあそこはおらなんだなぁ。明神山の裏の近所にはおりそうなもんだと思ったがおらん。つまらんじゃねぇか。よしきた田口に行ってやれっちゅうわけだ。あの時分は良かったぞう入漁券も無けにゃあ組合も無えだもんでお前。(笑)
ましてやそんな昼間っから魚釣っとるやつなんかおりゃへんだもんで。