イツシンデモイイ瞬間

1997/01/16(THU)-7

 昼食を終え、さあて出かけようかという時になって、ウェーディングシューズのかかとのところが張り出してアキレス腱に当たり、鋭く痛むようになっていたので手当をすることにした。見た所、外傷は無いが、靴の皮革が折れ曲がって足に食い込むようである。缶詰のブリキの蓋を曲げてアキレス腱に当てたがどうも調子が良くない。ブリントがメガネのビニールケースに詰め物をして、絆創膏でぐるぐる巻きにしてくれた。本当にこの人の優しさには心を打たれた。

「Thank you very much! very very much.」

 としか言えないのだが。

野の花が咲いていた

 昼食の後も疲れを知らぬブリントとの遡行は続き、右岸にこれまた大きな流木が沈んでいるポイントへ出た。その流木の回りを丁寧に攻め、上流を見るとまた別の流木がある。太い根っこが下流側に向けて沈んでおり、その回りは黒々とした丸い淵となってぐるりぐるりと水が巻いている。

 静かに下流側に立ち込み、慎重に距離を図ってニンフを投げる。淵の下流の端、中央、本流の際などを攻めてみるが反応はない。

 うーん、これはと考え直し、一番上流側の木の根っこギリギリを攻めるべく、ダヨーンとしたスラックラインを落とし、下流から渦に乗せてニンフを送り込む。木の根すれすれを流れたインジケーターが本流の流れに呑まれる直前に、ふっと止まる。

「今だっ」

 ロッドを立てると同時にあのなつかしくもすさまじい重量がラインにみなぎり、一挙に上流へと走り出す。ゴンゴンと竿を震わせる鱒の疾走を堪えるこの瞬間こそが釣り人の至福の時、イツ死ンデモイイ瞬間なのである。

「グッドストライク!あわてるな!」

「よーし、こいつは捕ったる!!」

 また下流の流木に突っ込むとまずいナ、などと取らぬタヌキの皮算用をし始めると、あっけなくラインはたるんでしまった。

「あっれー?」

「オーウ、残念!」

 がちょーん! またしてもフックが外れた。今のも大きかったのに。

「うーん、おしかったな。まぁいいさ、次がある次が」

 くーっ残念。自分で言うのも何だが今のキャストはうまく決まったのに!残念!祖父の言ったとおり、逃げた魚は確かに大きいのである。

 午後6時近くとなり、すこし休憩のティータイムとなった。流木の幹に荷物を降ろし、ぐったりと休む。日はまだ高く、これからまだまだ釣れるのだ。

 ブリントは大きなリュックからコーヒーメーカーを取り出し、本格的なコーヒーを入れてくれた。砂糖をたっぷり入れ、キャンディーバーといっしょに味わう。疲れた体に糖分が染み込んでゆく。

「君たち日本人は長い時間働くだろう」

「ええ、まぁそうですけど」

「釣りを見てればわかるよ。こんだけ長時間釣りができれば、それ以上仕事に励んでいるはずだ」

「かならずしも本人の意思で、というわけではないんですけど」

「私はアメリカ人のガイドもするけどね、彼らとの釣りには何も期待してないよ」

「どうしてですか?」

「彼らは歩くのが嫌いなんだ。50m歩くとすぐに座ってビールを開け始める」

「うーん、そうですか...」

 そんなもんかなぁと思いつつ、痛みの治まらないかかとをさすっていると、ブリントが自分のネオプレンソックスを脱いで、これを履いてみなさいと差し出してくれる。ただひたすら感謝するのみである。これでだいぶ楽になった。

「君にはガールフレンドがいるのか?」

 だしぬけにブリントが質問をしてきた。

「ええ、まァ、一人いますけど」

「一人いれば十分じゃないか。で、そのコは釣りはするのかい?」

「いや、まだ一緒に釣りをしたことはないです」

「女性に釣りを教えるときには、ゆっくりとすることだよ。セカしては失敗するからね。うちの女房は最近ようやく釣りをするようになってね。去年あたりはなかなかいい釣りをしたよ」

 いろいろと示唆に富むアドバイスをいただいて、また歩き始める。

「今日はどのくらい歩くんですか?」

「そうだねぇ、帰りに林道を歩いて車まで行くと、およそ10マイル(16キロ)ぐらいかな」

 うーん、1日の釣行でこれほど歩くのは、大学時代に残雪の奥只見に分け入って以来である。根性、根性。

 再び、ブリントの大股歩きの後を追っての遡行が始まる。

 時刻は午後7時半を回り、少し薄暗くなってきた。と、山の頂に黒い雲が現れにわか雨が降ってきた。水面に雨滴の波紋が広がり、幽玄な雰囲気になってゆく。

 あそこの淵まで行ってみよう、とブリントが声をかけた。上流に二股になった流れが合流している淵が見える。

 その淵で雨の中、粘ってみたものの当たりはなく、じゃぁ今日はこれでうち止めだ、ということにして竿を納める。午後8時過ぎであった。

ブリントさんとの記念写真

「いやぁ今日は良い釣りだったよ」

「おかげさまで3尾も大物を釣ることができました。感激しました。」

「まだ明日もあるよ。楽しみだね。だけど、最後に釣った60cmより、その前に逃げた大物の方が印象が深いだろ」

 たしかに、あの1尾とのファイトは、生涯忘れられないだろうと思った。今日は、7尾のストライク、3尾のキャッチだった。


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