山小屋の夜

1997/01/16(THU)-8

 ちょうど林道が川岸まで降りてきていたのでそこから上がり、林の中を歩いてゆく。林道の右側は果てることを知らぬ原生林であり、おそらくは樹齢百年を越える老木が苔むした幹を奔放に広げている。その下にはシダや潅木が生い茂り、地表にはぎっしりと腐葉土が堆積している。

 泥にぬかるむ林道を歩いての約6キロあまりの帰り道はいささかコタエるものの、3尾の鱒の手応えと興奮がいまださめやらず、夢見心地で足を運ぶのである。

 私たちと出会した野ウサギが2羽、あたふたと森の中に逃げてゆく。

 途中、ブリントが緑色の甲虫を見つけ、少年のように後を追って走り出す。

「捕った捕った。これだよ!鱒の大好物は」

 見ると、鮮やかな緑色をしたカナブンの一種である。日本のものより少し小振りである。

「鱒はこれが大好きなんだ。食べてボリュームがあるからね」

 そのビートルを模したフライもパターン化されているそうである。

 時刻は午後9時を回り、あたりは夕暮れに沈み、はるか遠くの山の頂が夕焼けに染まっている。

「あの峰が連なってきて低くなったところがトラックだよ」

 そう言ってブリントが指さすのは、まだまだはるか彼方である。痛む右足を引きずりながら、懸命にブリントの後を追って歩くこと1時間15分、ようやくトラックにたどり着いた。

「Here we are!」

 ブリントの叫び声に疲れも吹っ飛ぶ。のそのそとウェーダーを脱いで車に乗る。汗をかいた体に夕暮れの風が心地よい。

 牧場までトラックで戻り、山小屋(ハット)に車を止め、荷物を降ろす。ブリントが持ち込んだ食料とプロパンガスのコンロで夕食の支度を始める。今日はステーキだ。山小屋は6畳ほどの広さのキッチンとベッドが3つある寝室とがある。シャワーは表に面した小部屋になっており、トイレは戸外の牧場の中にぽつんと立っている。電気は来ていないので、ポケットライトをいくつか点けて夕食の明かりとした。大鍋で器用にステーキを焼いてくれているブリントが、焼き具合を聞いてきた。

「ミディアムでお願いします」

 ステーキの他にはパンとジュース、果物、缶詰と疲れ切った体にはずいぶんなご馳走である。ステーキが焼き上がり、皿の上に湯気を立てている。ポケットナイフで切り取りながらキッコーマンのミニパック醤油をかけてかぶりつく。胃に落ちる前に消化してしまいそうだ。

「僕の家では、味噌も醤油も豆腐もみんな母の手作りでした。うちの母はとても料理が上手だったんです」

 と、ブリントに話す。My mother was と言わなくてはならないのがつらいところだが、これも仕方がない事である。

「お母さんはいつ亡くなったの?」

「もう十年になります」

 ステーキに落ちるキッコーマンの滴に、故郷の屋敷の暗い土間に置かれた醤油の桶と、しゃがみ込んだ母の後ろ姿が一瞬浮かんで、消えた。

 腹いっぱい食べた後は、これまでの疲れがどっと出てくる。ブリントは早々とベッドに入った。明日は6時起きである。すぐ寝るつもりが興奮からかあまり眠たくはない。


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